人気オネエ・ゲイタレント20選まとめ

世界の美人女性まとめ

今回は人気のオネエ・ゲイのタレントをまとめてみました。

美輪明宏

美輪明宏は1935年の長崎生まれ、10才の時にアメリカの長崎原爆投下の惨状を、目の当たりにしてます。

そして戦後、せっかく上京して入った国立音楽高等学校を、家業の破産により中退。

1951年頃よりアメリカ「進駐軍」のキャンプまわりをし、ジャズを歌ったのが歌手デビューという、美輪明宏は年齢的にもオネエ界に限らず、芸能界のレジェンドです。

その後、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の貼り紙の美少年募集に応募、専属契約を交わし、ここで歌ってるところを、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如等、文化人に評価され、1957年、丸山明宏名で芸能界デビュー。

当時、シスターボーイと呼ばれていた頃の丸山明宏は、ユニセックスファッションで「男装の麗人」風でしたが、1971年に美輪明宏に改名後、女性的な衣装と化粧が色濃くなり現在にいたってます。

カルーセル麻紀もしかりですが、美輪明宏も文化人や、芸能界はじめ著名人に支援者がいたおかげで、浮き沈みの激しい芸能界、不遇な時期もを生き続けてこれたようです。

なので、男でも女でもゲイでも、やはり人に好かれる人間的な魅力と、基本的な真面目さは、大事なようです。

カルーセル麻紀

1942年の大東亜戦争真っ只中、北海道で生まれたカルーセル麻紀の本名は、平原徹男。

アメリカやイギリスなど敵国と、「徹底的に戦う男」になるようにと、父親がつけた名前だそう。

勇ましい名前は敵国と戦うのではなく、自分の「性」との戦いになるカルーセル麻紀は、高校中退し家出。札幌のゲイバーで働くようになり、19歳の時には既に去勢手術を行ってます。

芸能界デビュー後も、「青江のママ」経由でパリに店を出し、ママになったカルーセル麻紀。

パリに在住する動機が、パリからならモロッコ(かつてのフランスの植民地)も近いから、性転換手術ができると思ったからだそう。

1973年、既に芸能界で知られていたカルーセル麻紀の、このモロッコでの性転換手術は、当時の日本のマスメディアも大々的に取り上げ、かなり一般的にも話題になりました。

海外で芸能人が店を持つのも、まだかなり珍しい時代でしたから、有名芸能人で性転換手術を初めてしたのも、カルーセル麻紀でしょう。

また、2004年10月の「性同一性障害者特例法施行」を受けて性別の変更が認められ、戸籍上も女性となり、本名も「平原麻紀」と改名。

その動機も、性同一性障害で悩んでる若い子たちにとって、芸能人として名も顔も知られてる自分のような人間が、申請を認められれば、その突破口になるからとの事。

男から肉体も戸籍も完全に女になったカルーセル麻紀、生まれた時につけられた名前通り、やることは男らしいです。

池畑慎之介

 

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1952年生まれの池畑慎之介は、人間国宝にもなった上方舞吉村流四世家元、吉村雄輝 の長男として大阪に生まれ、3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして、父から厳しく仕込まれたそう。

二度の家出を繰り返し上京した、「男だか女だかわからない」美少年の池畑慎之介少年は、六本木のゴーゴークラブで働いていた時スカウトされ、「ピーター」名で1969年に芸能界デビュー。

1969年は、アメリカのアポロ11号が月面着陸した年でしたので、同年10月のデビュー曲「夜と朝のあいだに」のピーターのキャッチフレーズは、「アポロが月から連れてきた少年」。

今と違い当時のテレビは娯楽の王様、人気番組は視聴率20%~40%は当たり前。

家族団欒で楽しむ、そんなお茶の間のテレビのブラウン管に、突然!濃いめの化粧をした少年、ピーターの登場が、多くの批判含め、社会にどれだけ当時インパクトを与えた事か。

同年、レコード大賞新人賞を受賞、NHK紅白歌合戦にも出場したピーターは、元祖オネエ系アイドル、元祖ビジュアル系だったと言えます。

そんなピーターも、2018年一杯で、芸能界で半世紀近く使ってきた「ピーター」の名前を卒業、本名の池畑慎之介で統一する事を発表してます。

美川憲一

1946年生まれの美川憲一は、1965年のレコードデビューも、1966年の演歌の大ヒット曲「柳ヶ瀬ブルース」も、時代的にピーターより早かったのですが、当時の美川憲一はゲイである事を伏せてました。

なので当時の美川憲一は、ある時期からお馴染みのオネエ系キャラではなく、実力派歌手としてヒット曲を連発。1968年から1974年まで、NHK紅白歌合戦に7年連続出場。

そんな人気歌手だった美川憲一も、ある時期からヒット曲が出なくなり、紅白連続出場が途切れ、、更に追い討ちをかけたのが、1977年の大麻取締法違反による逮捕(起訴猶予)。

美川憲一はこの逮捕によって、以前より噂されていた「おかま説」(当時はゲイ、オネエという言葉は一般的ではなかった)で、「性倒錯者」と揶揄中傷され、人気は急降下。

更に1984年、大麻取締法違反で2度目の逮捕。

執行猶予付きの判決が出るも、もはや歌謡スター!美川憲一の面影は、完全になくなる致命的な逮捕でした。

再起出来たのは「生みの母と育ての母の二人の存在があったから。背負うものがあったから頑張れて、地獄から這い上がれたんです」

と、近年テレビ番組「バイキング」で述懐している通り、美川憲一は実の母の不倫相手の子で、育ての母は実母の姉。

高校を中退して歌手を目指したのも、「二人の母」を食べさせていくためだったそう。

で、そんな美川憲一が復活するのは、バブル絶頂期の1980年代後半、モノマネブームの最中、モノマネの人気者、コロッケの美川憲一ネタが大受けしてから。

人気ブレイクした美川憲一は、今やお馴染みの化粧をしゲイである事を隠すこともなく、オネエ言葉の毒舌キャラで大復活。

時代が変わったこともあり、オネエの美川憲一は、特に若者たちに熱く支持され現在に至ってます。

ミッツ・マングローブ

 

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父は、英国伊勢丹社長や伊勢丹の新宿本店次長を務めた徳光次郎。伯父(父の兄)はアナウンサーの徳光和夫。

小・中学校をロンドンで過ごし、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、再び英国のウエストミンスター大学コマーシャル・ミュージック学科へ留学(中退)。

詐欺師が経歴詐称に使いたくなるような、ものすごい経歴履歴を実際に持つ、ミッツ・マングローブ。

だいたい皆さんそうですが、マッツ・マングローブも子供の頃から、自分は同性愛者という自覚はあったそうです。

でも、マッツ・マングローブは182cmの高身長で、オネエ言葉なれど声のトーンも低く、オネエに「ありがちな」ハイテンションで、大声ではしゃぐでもない、かなり威圧感のある「女装家」。

シリアスなトークも人気のマッツ・マングローブは、少し他のオネエとは、違う感じをうけます。

自らも「はじかれ者」と称し、男にモテないやつらが自虐的にやったのが女装。2丁目的な同性愛のヒエラルキーの中では、自分たちはモテないから最下層と、自虐的に述べてます。

トップは、男社会と同じで顔がよくて筋肉があってファッションセンスがよくて、お金も持っているゲイの人だそう。

1975年生まれで、少し年上のマツコ・デラックスとマッツ・マングローブは、仲が良いそうです。

マツコ・デラックス

マツコ・デラックスは、1972年生まれのコラムニスト、エッセイスト、女装タレント、司会者。

美容専門学校卒業後、美容業の仕事をしていたが、「何か違う」と感じていた時、アクティビストな同性愛者の姿を見て奮起。

新宿二丁目でゲイショップを運営していた平井孝が創刊した、新興ゲイ雑誌「Badi」の編集部に転職。

当時のゲイ雑誌といえば「薔薇族」が最も売り上げがあったことから、「打倒!薔薇族」が旗頭だった「Badi」は、売り上げでその目標を達成。

記者だったマルコ・デラックスは、新宿2丁目や地方のクラブイベントに来ていたお客さんを、写真つきで紹介する連載コーナー「マチカドボーイフレンズ」をスタート。

更に一般のゲイの読者モデルを表紙にし、読者モデルの人気投票を行う企画も大成功。「Badi」読者たちに、雑誌に載ることはかっこいい意識を芽生えさせ、マツコ・デラックスは編集長に就任。

TOKYO MXの「5時に夢中!」の番組MCをつとめていた徳光正行は、従弟のミッツ・マングローブからマツコ・デラックスの話しは聞かされていたので、2005年、プロレスラーの高山善廣の代役として、マツコ・マングローブを急遽起用。

出演した回がスタッフに好評だったため、マツコ・デラックスは後にレギュラーコメンテーターになり、人気に火がつき、2009年にはフジテレビで、初の冠番組「マツコの部屋」が開始。

タレント、コメンテーターとして人気は大ブレイク。現在に至っております。

GENKING

1985年、出世名「田中元輝」として生まれたGENKING。

17歳の時、ジュノンボーイの愛知県選抜になり、芸能界に足を踏み入れるも、ギャル好きの「彼」との大失恋で、芸能活動が中断されたそう。

その時、美輪明宏の本で「カルマの法則」を知り、自分の行なったことは自分に返ってくるというこの法則で、すごくひねくれていた自分を反省、本来の優しい自分に戻ったそう。

GENKINGが有名になったのは芸能界ではなく、インターネット。

始めたInstagramで、謎のセレブ美男子として話題になり、芸能事務所からのオファーがくるようになったそう。

三十路を前に、2014年に自身のアパレルブランドを立ちあげ、芸能事務所にも所属。

「気分により男と女のときがある」とユニセックス、ゲイ、オネエとは違うニューキャマーとして一躍時の方になり、Instagramのフォロー数も激増。

現在は、タイで「性適合性手術」を受け、体は完全に「女性」になり、性同一性障害が認められ戸籍上も「女性」になり、名前が元輝から沙奈に変わってます。

GENKINGは「男」の頃の方が「女」を意識していたそうで、「女」になってからは、胸の谷間が見える服は恥ずかしく着なくなり、メークも薄くなったそうで、今は結婚して子供が欲しいそう。

完全に「心」も、GENKINGは「女性」になったようです。

IVAN

 

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1984年生まれのIVANは、見た目と裏腹にメキシコで生まれますが、すぐ日本の奈良県に移住した、日本育ちです。

父は日本人とスペイン人のハーフで、母がメキシコ人なので、誰が見ても「外人」の顔立ちになってますが、本名は笠原明。

渡米しカリフォルニア州の高校に進学。卒業後帰国し、モデル活動を開始。

2004年にはパリコレのモデルに選ばれ、世界のトップモデルとしても活躍。2007年には音楽活動も開始し、その存在を確固たるものにしてます。

そして、テレビ「有吉反省会(2時間スペシャル)」において、自分はオネエ、ゲイである事をカミングアウト。

2018年に俳優、歌手の野村将希のご子息、俳優の野村祐希(1994年生まれ)と真剣交際してることを発表。二人の動向が見守られ続けてます。

IVANは、オネエタレントを主に3パターンに、ざっくり分類してるのが興味深いです。

・女性的なゲイ(クリス松村、おすぎ、ピーコ、假屋崎省吾)

・女装家(マツコ・デラックス、ミッツ・マングローブ)

・ニューハーフ(カルーセル麻紀、はるな愛、佐藤かよ KABA.ちゃん)

世間は、なんでも「ゲイ」と一括りにしがちなので、わかりやすい分類だと思います。ノンケの人は、参考にしてみてはいかがでしょうか。

佐藤かよ

 

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佐藤かよは1988年生まれの、美しいファッションモデル、タレントです。

子供の頃より自分の性に違和感を覚えるようになり、その後、性同一性障害に苦しみ、年々ジェンダーをはっきりさせる学校に「このままでは生きていけない」と限界を感じ、高校に進学せず、アルバイト生活。

婦人服売り場で女性として働いていた所、雑誌社からモデルとしてスカウトされたそう。

二十歳の2008年頃、地元名古屋のファッション雑誌「東海SPY GIRL」の専属モデルになり、東京などからも声がかかり、男ですから佐藤かよは女性なら長身になる、身長も172cm。

モデルだけでなく、レースクイーンやラウンドガールなども経験。

そして人気、知名度が上がった2010年、自分は生物学上、戸籍上は男性であることをカミングアウト。

なんと所属事務所社長も!、佐藤かよが男だった事を知らなかったという、凄い逸話が残ってますが、声も所謂「オネエ」のそれではなく、女性のようなトーン。

知らなければ、佐藤かよが男と思う人は、おそらくいないでしょう。

IKKO


1962年生まれのIKKO、本名、豊田一幸(かずゆき)は、少年時代は天真爛漫な子供だったそうですが、登校中に「オカマ、オカマ」と言われるようになり、深く傷ついたそう。

それをきっかけに人と接する事を嫌うようになり、夢も希望もない思春期を過ごしていたそうですが、唯一の憩いの場が母親が経営してた美容室。

ソファの片隅で、女性たちが綺麗になっていくのを見ているのが、女性たちが嬉しそうな顔をしている瞬間を見てるのが好きで、ここだったら自分もやっていけるかと思ったそうです。

IKKOは、九州の美容専門学院卒業後、横浜市の高級美容室「髪結処 サワイイ」に美容師として、住み込み就職。

8年間の修行の間に、芸能人のヘアメイクやメイクアップ担当などを経験後、1992年に、30歳にしてヘアメイクアップアーティストを目指し独立、「アトリエIKKO」を設立。

女性誌の表紙・ファッションページや、テレビ・CM・舞台・バラエティに出演するほか、トークショーも行い、そのオネエキャラ含め、「美」のプロとして注目を集める。

2006年の日本テレビ「おネエ★MANS」に、エマニュエルウンガロやグッチなどのハイブランドを身につけ出演してからは、一般的にオネエタレントとして知られるようになります。

ヘアメイクの世界で圧倒的な実績を誇り、「美のカリスマ」と呼ばれているにもかかわらず、テレビでは体を張り、どんな企画でも真剣に挑んでいるのが人気になり、現在に至ってます。

KABA.ちゃん

 

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KABA.ちゃんは、1969年生まれのタレント、振付師。

子供の頃、ピンクレディーや松田聖子等の女性アイドルが好きで、アイドルになるために、近くのスポーツクラブでバレエを含めた様々なダンスを習っていたそう。

その後、マイケル・ジャクソンのダンスに衝撃を受け、高校を中退して18歳で上京。

アルバイトを掛け持ちしながら、週5日渋谷のダンススクールで学び、21歳でニューヨークへ単身渡米、ダンスの技術を磨く。

1996年、27歳にして小室哲哉プロデュースの3人組ダンスユニット、dosのメンバーとしてデビュー

dos結成以前から現在まで、振付師としても活躍。安室奈美恵、SMAPのコンサートツアーの振り付けなどを担当。

が、KABA.ちゃんが一般的に知られるようになったのは、人気テレビ番組「笑っていいとも!」に、SMAPの振付師という肩書きで出演するようになってからで、番組内で、自分はオネエであることをカミングアウト。

現在は、性別適合手術を行い、戸籍上も椛島永次から椛島一華に変わり、完全に「女性」になってます。

はるな愛

 

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1972年生まれの大西賢示は、物心ついた頃から自分は女性だと意識してたそう。

小学校時代から大西賢示は、女装してアイドル歌手のものまねをしてたそうで、思えばこの頃から既に将来の「はるな愛」をやってたわけですから、自分の好きな事を仕事にしてるのは、幸せです。

高校中退後、大阪心斎橋にあるニューハーフショーパブ「冗談酒場」で働くようになり、芸能界デビュー前の1995年、大阪市・わだ形成クリニックにて性別適合手術を受けてます。

1996年頃より「素人」としてテレビ出演してた後、「春菜愛」名義で、関西の「快傑えみちゃんねる」にレギュラー出演。

アイドル系美形ニューハーフとして人気がでたことで、1998年に上京。

思えば26歳を迎える年齢で、ニューハーフアイドルになろうと決心して上京したのは凄いわけですが、仕事はあまりなく、戸籍上は男である事を隠してレースクイーンをしていたそう。

で、この時も少ない仕事の中から貯金した資金で、スナックを開業してるので、現在お好み焼き屋など4店を経営している、実業家としての才覚も、はるな愛は当時からあったよう。

そして、エアあやや=松浦亜弥子、エア松田聖子、エアBoA、エア・ホイットニー・ヒューストン等、ニューハーフパブで演じてた芸をテレビで披露。これが大受けし、人気がブレイク!!

2008年に念願のCDデビューし、現在に至ってます。

尾木直樹

 

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独自の教育論がママ達に人気の高い、1947年生まれの尾木直樹は、臨床教育研究所「虹」主宰、日本の教育評論家法政大学特任教授。

女性のような物腰、柔らかいオネエ口調から「尾木ママ」という愛称で呼ばれてます。

が、オネエ口調は、教師時代に女子生徒の進路の悩みから恋の悩みまで、交換日記にアドバイスを書いて渡していたとき、感性を高めるために染み付いたもので、本人は「オネエ」ではないとしてます。

尾木直樹は1980年代頃より、教員として教育問題でテレビ、ラジオ出演してますが、教員をやめてから、バラエティー番組にも出演するようになり、そこで「尾木ママ」と、明石家さんまに付けられたそう。

なので、オネエ口調なれど尾木直樹はオネエではなく、普通に奥様も子供も二人いる、聖職者です。

假屋崎省吾

 

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1958年生まれの、世界的なフラワーアーチストの假屋崎省吾。

假屋崎省吾は、男の子が興味を持つようなヒーローもの、アニメや野球に一切興味を示さず、バイオリンとピアノを習いながら、自宅の庭で、母親と綺麗な花を育てるのが楽しみだった少年だったそう。

東京の練馬区石神井の生家は、狭い借家なれど、庭が広かったようで、ここが假屋崎省吾のフラワーアーチストとしての、原点になってるようです。

そして大学在学中に、いけばな「草月流」本部教室に入門。

一度は普通に就職するもすぐ退職。アルバイトをしながらいけばなに専念。そのあと、才覚があったのでしょう、ディスプレイデザイン賞など数々の賞を受賞。

国賓をもてなす場の花のプロデュース、各地での個展開催、芸能人の結婚式のブーケの提供などの縁で、テレビ番組に出演するようになり、一気にその名を世間に知られます。

マスメディアに登場以降、金髪に染めた長髪や奇抜な衣装によって、假屋崎省吾はオネエではないか?と噂されましたが、自分で同性愛者と公言。

17歳年下の同居人がいるそうです。

如月音流

 

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如月音流は、実業家、アスキーアート作家、タレント、ヴィジュアル系ロックバンドのボーカリスト。

基本、本名年齢は非公式のようです。

北海道稚内市内にあるラーメン屋の「息子」に生まれた如月音流は、調理師専門学校卒業後は、実家のラーメン屋を手伝いながら、当時流行りだった携帯電話のデコメールサイトを運営してたそう。

そのサイトが、東京の会社社長の目に留まったことがきっかけになり、上京。

上京後、如月音流は手術をして女性へと生まれ変わったとされてますが、何処までの手術なのかは不明です。

2006年、ニューハーフをはじめ性的少数者やオタク等の地位向上を目的として、ウェブ制作会社・ニューゲージを起業。代表取締役を務める。

以降、ウィルポート編集長やガールズウォーカー副編集長など、モバイルインターネット企業の役職も務めるようになり、ITのカリスマのキャッチコピーで同年、日本テレビ系「おネエ★MANS」に出演。

それを機にタレント活動も開始。2007年にはヴィジュアル系バンド・Lily-C[lie]me結成。初の著書『美人力。』を発表と、ノリに乗って人気者になりました。

たけうち亜美

 

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1987年生まれ、出生時の名前は小野雄治郎。男ゆえ身長173cm、女性なら高身長になる、たけうち亜美。

高校3年生時に、豊胸手術と睾丸摘出手術を行い、19歳の時に性別適合手術を実施と伝わってますが、高校3年時に、どうやってこの、けっして安くはない手術費用を捻出したのでしょうか?、、、

定時制高校だったらしいので、昼間は何処かで働いて、その給与を貯めたのでしょうかしら?

そして、国際ニューハーフ美人コンテスト「ミス・インターナショナル・クイーン」2010で、準ミスグランプリとミスフォトジェニックを受賞。

既に芸能活動をしてた、はるな愛が前年のグランプリを獲得した事もあり、注目を集め、2013年に名古屋から上京。芸能界デビュー。

2015年にオネエ3人組のユニット「カマちゃん倶楽部」結成。歌手デビュー。

2016年、日本テレビの実写ドラマ化された「天才バカボン」では、「本当は男の女」という、そのままの役名で登場してます。

山咲トオル


1969年生まれの山咲トオルは、漫画家、タレント。

元々はアイドル志望だったので、オーディションを受けまくるも合格せず。楳図かずおの影響そのもののタッチの、ホラー漫画家として1994年にデビュー。

元々本人がアイドル志望だったせいか、1997年頃よりマスメディアへの登場が増え、「トオルちゃん」の名前で「オカマ」キャラとして、いじられる事が多くなります。

でも山咲トオルは、オネエ言葉は使えど、これは昔からで、自分はオネエではない、恋愛対象は女性と、ゲイを否定していました。

が、2016年のテレビ番組「ヨソで言わんとい亭〜ココだけの話が聞ける(秘)料亭〜」で、自分は同性愛者であると、過去の発言を覆します。

その理由は、山咲トオルがテレビに出はじめた頃、番組スタッフより好きな人は女性というように指示を出されていたから、嘘をついていたそうです。

ゆしん

 

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1989年生まれのゆしんは、女装家。

今は何処からどう見ても「女性」のゆしんなれど、18歳までは普通に女性好きで、かなりやんちゃな男の子だったそう。

18歳の時、結婚しようと思うほど好きだった女性が、気ずいたら同級生の兄の子を産んでいた事にショックを受け女性恐怖症になり、遅咲きのオネエデビューになったそう。

オネエデビューが、そういう理由なのと、その後も、二十歳の頃に女性と同居していた時、ある日突然、家のものが炊飯器とカーテン以外、全部なくなっていたという痛い思い出も公表。

男という「性」を否定する手術はしてないようなので、ゆしんは体も戸籍も「男」。

ゆえに、ゆしんは生まれつきのゲイなのか?、それとも女装マニアなのか?は不明。

これからのカミングアウト、或いは恋人が男になるか?女になるかで、そのへんはわかると思われます。

ナジャ・グランディーバ

 

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ナジャ・グランディーバは、1974年生まれの女装家。

女装を始めたのは兵庫から大阪に出た20歳頃だそうで、女装マニアのゲイの人の中では遅いようですが、それ以前から恋愛の対象は男。

女装はゲイバーのアルバイト、最初から「仕事」で始めたそうです。

20代後半より浜崎あゆみ、DREAMS COME TRUEのミュージックビデオに出演。2011年に関西のテレビ「ハピくるっ!」にレギュラー出演。

30代後半になって、関西圏で人気になった、ナジャ・グランディーバは遅咲きタレント。

更には2014年、東京の太田プロダクション所属になり、40歳にして東京進出(大阪在住ですが)。

ナジャ・グランディーバは、迫力ある見た目と違い、若い頃の親友の裏切りと大失恋のダブルパンチが原因で(勿論、相手は男)、恋愛恐怖症になってしまい、それ以来、40代になった現在まで恋愛経験がないそうです。

ぺえ

 

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1992年のぺえは、小学校5年生時に、自分は同性愛者だと気づいた女装タレント。

大学時代、女性アイドルグループのAKB48のオーディションに応募した経験があるそうですから、自分は可愛い女の子だという自意識は、学生時代からあった男の子だったのでしょう。

2015年、原宿に憧れる普通の地方の女の子と同じように、ぺえは山形から2015年に上京。

原宿の「W♡C」のカリスマショップ店員として話題になり、上京から1年も経たないうちにテレビ「マツコ会議」に出演してますから、凄いものです。

2016年、芸能事務所と契約、タレントデビューし、テレビ「行列のできる法律相談所」で、自分が同性愛者である事を公表。現在に至ってます。

オネエタレントが人気の理由は?

オネエタレントは、ほぼ100%、少年時代、自分の「性」と、学校や親や世間との折り合いに、苦悩してます。

オネエタレントは概ね「毒舌」と言われますが、自身の人生経験で育んだその人生観、人間観察は、聞くものは耳が痛い、鋭い切り口の真理が多々あるので、トークがとても受けます。

そしてその耳に痛いことも、けっして人を傷つけない心配り、ちゃんとフォローもあるのが、唯の「毒舌」とは違い、好感を持たれます。これも話芸ではなく、そこまでの人生観からくるものでしょう。

また、男でも女でもゲイ、オネエでも、他人より秀でた才覚がなければ、世に出ることができないのは、今も昔も世の常。

オネエタレントは美容、化粧、ダイエット、ファッション、着付け等、女性より詳しい方、もちろん専門家もいるので、女性達もその薀蓄に耳を傾けたくなる、魅力があります。

更に、実業家としても成功してる(もともと成功してた)方も多々おり、テレビのブラウン管とは違う別の顔を皆さん、しっかり持っている、「人間」として魅力的な方が多いです。

皆が皆、そうではないと思いますし例外もありますが、オネエキャラは最初は面白がられても、他に何らかの芸、才覚がないと、すぐ大衆冷たいので飽きてしまいます。

ノンケの男女もしかりですが、息の長い活動を続けてるオネエタレントは、やはり凄い人達なのです。

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