元オリンピック選手の芸能人・有名人10選まとめ

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4年に1度のオリンピック、過去に多くの日本代表が活躍してきました。

アスリート引退後、時の流れでそれも人々から忘れ去られるのが、世の常。

そこで、元オリンピック選手の芸能人・有名人10選まとめ、調べてみました。

麻生太郎

元内閣総理大臣、政治家の麻生太郎。

学習院大学時代からクレー射撃を始め、22歳の時に全日本選手権で優勝。

麻生セメント株式会社代表取締役社長になったばかりの翌年、1974年のメキシコ国際射撃大会に優勝。

麻生太郎は1976年、カナダのモントリオールで行われたオリンピックの、クレー射撃競技の日本代表に堂々選ばれてます。

35歳で出場したオリンピック、結果は41位とはいえ、社長業をやりながらのオリンピック出場は、なかなかの快挙。

麻生太郎が政界進出するのは、オリンピック出場から3年後の1979年。

オリンピックを最後に、得意のクレー射撃は、一度もやってないそうですが、2000年5月には、日本クレー射撃協会会長に就任してます。

橋本聖子

 

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2019年10月、東京五輪担当・女性活躍担当・内閣府特命担当大臣の橋本聖子。

東京オリンピック開催の1964年10月に生まれたので、聖火にちなんで、聖子と名付けられたそう。

橋本聖子は、スケート選手として1984年、サラエボ冬季オリンピックに出場。

メダル候補と期待され、スピードスケート女子全種目の4種目に出場するも、入賞には届かず。

1988年、二度目のカルガリー冬季オリンピックでも、スピードスケート女子全種目の5種目に出場。

今度は、全ての種目で日本記録を更新の上、入賞を果たしてます。

橋本聖子は更に、同1988年のソウル夏季オリンピックにも、自転車の代表選手として出場。

冬・夏両方のオリンピックに出場の、快挙を達成してます。

そして1992年、橋本聖子三度目のアルベールビル冬季オリンピックでも、女子スピードスケート全5種目出場。

日本人女性としては史上初となる、冬季オリンピックで銅メダルを獲得。

橋本聖子は当時、アスリートとして日本中が注目していた選手でした。

そんな人気の橋本聖子は1995年、自民党から立候補し、初当選。

1996年、更に現職国会議員として、アトランタオリンピックの自転車競技2種目に出場。

入賞ならずの12位と9位の成績よりも、国会議員とスポーツ選手の二足の草鞋は、強烈にバッシングを浴び、スポーツ選手としての引退を決意。

政治家一本になり、今に至ってます。

森末慎二

 

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森末慎二は、1980年代後半より、飄々としたタレント活動をしてますが、元々はオリンピック体操、日本代表、堂々の金メダリスト。

森末慎二は、1984年のロサンゼルスオリンピックに出場。

当時、日本男子の体操競技は、日本のお家芸と言われるほど強く、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールと、メダルラッシュ。

森末慎二はそんなプレシャーの中、種目別・鉄棒決勝で10点満点の金メダルを獲得。

森末慎二の10点満点の完璧な演技に、日本中拍手万雷、オリンピック中継のお茶の間は、興奮の坩堝とかしました。

また、跳馬でも銀メダル、体操団体では銅メダルと、森末慎二は1つの大会で金、銀、銅の3つのメダルを獲得してる、日本体操界のレジェンド。

2019年10月現在、62歳になった森末慎二は、8年前に移住した宮古島で、アスリート・タレントに続く第三の人生を過ごしているようです。

田中雅美

 

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スポーツコメンテーター、タレントとして活躍中の田中雅美は、水泳選手としてオリンピックに3度出場してます。

高校生で初出場した、1996年のアトランタオリンピックでは、200m平泳ぎで5位入賞。

大学生で二度目の出場となった、2000年のシドニーオリンピックでは、女子400mメドレーリレーで、銅メダル獲得。

女子100m平泳ぎでは6位、女子200m平泳ぎで7位と、ともに入賞。

三度目の2004年のアテネオリンピックでも、女子400mメドレーリレーで5位入賞。

女子200m平泳ぎでは、0.05秒差でメダルを逃す4位入賞と、田中雅美はオリンピック3大会で、3連続入賞してます。

田中雅美のルックスの良さは、アスリート時代から評判でしたから、現役引退後、各方面から引く手数多なのは、当然の結果と言えます。

松岡修造

松岡修造は、東宝第11代社長で実業家の父と、元宝塚歌劇団の星組男役スターであった母との間に生まれてます。

典型的な御曹司の松岡修造なれど、慶応幼稚舎、慶應義塾高等学校時代は、かなりの問題児だったそう。

柳川高に編入後、テニス部のスパルタ教育が松岡修造の性にあったようで、プレイヤーとして頭角を現し、高校総体単・複・団体で三冠を達成。

ボブ・ブレットコーチとの、運命的な出会いにより高校中退。

松岡修造はヨーロッパ遠征含め、アメリカに生活の拠点を移した頃、プロ転向しています。

松岡修造はオリンピックも、1988年のソウル、1992年のバルセロナと連続出場するも、いずれも1回戦敗退。

1995年に松岡修造は、ウィンブルドン選手権男子シングルスで、グランドスラムベスト8に進出。

3度目のオリンピック出場になった、1996年のアトランタは大いに期待されましたが、残念ながらまたしても1回戦敗退。

松岡修造は1998年に現役引退。

後進の育成やスポーツコメンテーターとしての仕事は勿論、オリンピックでの熱い応援ぶりでも、松岡修造は注目を集めてます。

古田敦也

 

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古田敦也は野球解説者、タレント、スポーツキャスターとして活躍中。

古田敦也が、プロ野球の現役選手時代はヤクルトスワローズの名キャッチャー、スラッガーだったのは、とても有名です。

古田敦也氏はプロ入り前の社会人野球、トヨタ自動車時代、1988年のソウルオリンピックで、野球(公開競技)の日本代表にも選出されてました。

古田敦也氏は野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組み、プエルトリコ、台湾、オランダ、準決勝の韓国とやぶり、4連勝で決勝進出。

決勝戦でアメリカに3対5で敗れるも、日本代表は見事に!銀メダル獲得。

翌年、野茂英雄が8球団1位指名競合になった、1989年のドラフト会議で、古田敦也はヤクルトスワローズより3位指名を受け入団。

古田敦也のこの後の活躍は、プロ野球ファンなら、誰もがご存知の通りです。

川合俊一

 

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川合俊一はタレント、司会業、そしてバレーボール、ビーチバレーの解説者、指導者として活動してますが、元バレーボールの日本代表選手。

日本の男子バレーボールは、1964年の東京大会の銅メダルから、メキシコで銀、ミュンヘンで待望の金メダルを獲得。

1976年のモントリオールでは4位とメダルを逃しましたが、この当時は、日本の男子バレーボールは世界のトップレベルという意識が、日本人にはありました。

川合俊一が、初めて全日本メンバーとしてオリンピックに出場したのは、1984年のロサンゼルスオリンピック。

日本の男子バレーボールは強いイメージが、当時はまだあったので、期待されましたが結果は7位。

川合俊一二度目のオリンピックとなった、1988年のソウルは10位。

結局、川合俊一はメダル獲得はできませんでしたが、日本の男子バレーボールが、まだ世界レベルで戦えてたのは、この頃が最後。

ソウルオリンピック以降、日本の男子バレーボールは、7大会で5度予選敗退。

メダル以前に、予選突破も難しくなってしまってます。

長州力

 

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人気プロレスラーとして、長年に渡り活躍した長州力。

長州力は高校・大学の7年間はレスリング漬けの日々で、専修大学2年時、全日本学生選手権グレコローマン90㎏級で優勝。

長州力は現在は帰化してますが、当時は在日2世で国籍の問題があり、1972年のミュンヘンオリンピックに、韓国レスリング代表として出場してます。

戦績は1勝2敗(減点制度により失格)で、残念ながらメダルも入賞も果たせませんでした。

ミュンヘンオリンピックのレスリング日本代表には、中央大の鶴田友美、後のジャンボ鶴田もおりましたが、こちらも2回戦失格。

共にオリンピックでのメダル、入賞は果たせなかったとはいえ、アマレス界のエリートのジャンボ鶴田と長州力のプロレス入りは、話題になりました。

ジャンボ鶴田は全日本プロレスで、長州力は新日本プロレスで、一時代を築いたのは、オールドプロレスファンなら、誰もがご承知の通りです。

小川直也

 

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小川直也は1997年より、プロレスラー、プロ格闘家として活躍、抜群の人気を誇った柔道家です。

小川直也は1986年、明治大学1年時、全日本学生柔道選手権大会の無差別級で優勝、一躍脚光を浴びます。

大学卒業後、JRA所属になった小川直也は1992年、全日本選手権で4連覇を達成。

同年、代表に選ばれたバルセロナオリンピックでは、金メダル確実と言われるプレッシャーの中、銀メダルを獲得。

小川直也の銀メダルは、日本のお家芸、柔道ということもあり、賞賛ではなく「まさかの敗退」と報道されました。

小川直也はバルセロナオリンピック後は、引退を考えていたそうですが、銀メダルでも!負けた責任を感じ、現役を続行。

4年後の1996年、小川直也はアトランタオリンピックの、再び日本柔道の代表選手に選ばれますが結果は5位。

メダル獲得ならずでしたが、翌1997年、プロ格闘家としてデビューしてからの小川直也の活躍は、格闘技ファンなら誰もがご存知の通りです。

瀬古利彦

 

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日本陸上競技連盟、強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダーとして活動中の瀬古利彦。

瀬古利彦は、金メダル確実と言われた1980年のモスクワ五輪を、ソ連のアフガニスタン侵攻理由にアメリカがボイコット。

時代は東西冷戦下、日本も西側の一国なのでオリンピックをボイコット。

結局、瀬古利彦の確実と言われた金メダルは、幻に終わりました。

4年後、晴れてロサンゼルスオリンピックに選ばれた瀬古利彦は、ここまで国際大会4連勝中。

メダルは確実と言われていましたが、35k手前、瀬古利彦は先頭集団から遅れ、結果は14位(自己ワースト記録)。

中山竹道の台頭もあり、既にマラソンランナーとしては、ピークが過ぎたと思われた4年後。

瀬古利彦は、1988のソウルオリンピックも代表選手に選ばれますが、結果は9位(自己ワースト2位)。

一時は国民的ヒーロー、世界のトップランナー達からも最強と賞賛されてた瀬古利彦でしたが、オリンピックのメダルを取ることはかないませんでした。

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