紅白歌合戦歴代出場回数ランキング30!アノ芸能人が最多出場者?

日本全国、大晦日のビッグイベントとして定着してるNHK紅白歌合戦ですが、1951年の第一回は、1月3日に、NHK東京放送会館第1スタジオで行われた、正月番組。

恒例の大晦日開催になったのは、1954年の第四回からで、以降、1963年の視聴率81.4%の歴代最高記録含め、1984年頃までは、視聴率70%台は当たり前の、国民的イベントになりました。

2000年以降、視聴率は落ちたと言われても30~40%台。出演歌手による瞬間最高視聴率は、50%超えもある、他に例のない高視聴率番組、NHK紅白歌合戦。

そして2019年の大晦日には70回を迎える、歴史あるNHK紅白歌合戦の、歴代出場回数ランキング30を、調べてみました。

29位 橋 幸夫(19回)


橋幸夫は1943年、東京都荒川区出身。

橋幸夫は学生時代は悪童で、ボクシングに熱中。心配した母親が遠藤実の歌謡教室に通わせたことが、歌の世界に入るきっかけだそう。

1960年、17歳になったばかりの橋幸夫は「潮来笠」で、レコードデビュー。

デビュー曲から大ヒットした橋幸夫は、同年、紅白歌合戦初出場。その後は1976年まで17年連続出場。

当時「御三家」と言われた舟木一夫、西郷輝彦の3人の中でも、橋幸夫は最長連続出場で、その後も2度出場の19回は、3人の中でトップです。

29位 香西かおり(19回)


1963年、大阪生まれの香西かおりは、幼い頃から民謡で各種の賞を受賞、本名の「香西香」名義で民謡のレコードも発売していました。

高卒後の1982年、香西かおりは太陽神戸銀行に入行するも、歌への想いが募り退行。歌手になるため上京。

香西かおり上京から、24歳の1988年にレコードデビューするまでの経緯は、未公開のようです。

更に香西かおりが、自身最大のヒット曲となった「流恋草(はぐれそう)」で紅白歌合戦に初出場するのは、レコードデビューから3年後の1991年。

以降、香西かおりは2016年まで、紅白歌合戦出場通算19回。

29位 氷川きよし(19回)


氷川きよしは1977年、福岡県生まれ。

氷川きよしは22歳、2000年にレコードデビューしてますが、高卒後からデビューに至るまで、また、どういう経緯で上京したか等、公表されてないようです。

演歌の人気が停滞してたこの時期、若い氷川きよしが歌うデビュー曲「箱根八里の半次郎」は、それだけでも注目され、そしてヒットもしましたので、デビュー1年目にして、紅白歌合戦初出場。

以降、氷川きよしは2018年まで19年連続出場。19回は橋幸夫,、香西かおりと並んで歴代29位ですが、ランキング30の中で、ソロ歌手としては最年少。

人気も衰えを見せてないので、氷川きよしの更なるランクアップは、間違いないところと思われます。

28位 鳥羽一郎(20回)

鳥羽一郎は1952年、三重県生まれ。

鳥羽一郎の父は漁師、母は海女という漁業一家で、鳥羽一郎も5年間、遠洋漁船の船員としてマグロやカツオの捕獲に従事。

厳しい環境での心の慰めは、「別れの一本杉」「なみだ船」といった船村徹の作品だったそう。

鳥羽一郎は、1981年にレコードデビューしてる、実弟の山川豊の東京の活躍もあり、歌手への想いを断ち切れず27歳で上京。

憧れの存在であった船村徹に弟子入り。

3年間の修行後の1982年、鳥羽一郎は「兄弟船」で歌手デビュー。このとき既に30歳を迎えていました。

鳥羽一郎の紅白歌合戦初出場は、それから3年後の1985年で、先にデビューしていた山川豊は1986年。

鳥羽一郎は2007年まで、紅白歌合戦は通算20回出場。うち「兄弟船」は7回歌われてます。

26位 春日八郎(21回)


春日八郎は1924年、福島県生まれ。

春日八郎は旧制中学を中退し、エンジニアを志し13歳で上京するも、藤山一郎に憧れた歌手の夢を捨てきれず、東洋音楽学校へ入学。

時代が大東亜戦争真っ只中だったため、卒業後は陸軍入隊。敗戦後、台湾より復員。

その後、春日八郎はムーラン・ルージュ新宿座に入団。歌手活動を開始するも全く売れることなく、退団後の1948年、キングレコードの第1回歌謡コンクールに合格、無給ながら準専属歌手となります。

そんな春日八郎が、「赤いランプの終列車」で念願のレコードデビューを果たすのは、1952年。

紅白歌合戦初出場は、その2年後の1954年、30歳になってからでした。通算21回出場。

春日八郎は1991年、肝硬変と心肺不全により死去。67歳没。

26位 藤あや子(21回)

 

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藤あや子は1961年、秋田県生まれ。

藤あや子は小学4年生の時から民謡を習い、高校卒業後に就職はしたものの、職を転々としながら民謡歌手として地元で活動。


藤あや子20歳時の1981年、2歳年上の男性と結婚。同年に女児を出産しますが、その後離婚。

その経歴は週刊誌がすっぱぬかれるまで、長年伏せられてきましたが、26歳の藤あや子が、どういう経緯で1987年にレコードデビューに至ったのかも、未公開のようです。

そして1992年、藤あや子31歳にしての初ヒット、「こころ酒」で紅白歌合戦初出場。

美人演歌歌手として人気を集めた藤あや子は、以降2015年まで、紅白歌合戦は通算21回出場。

22位 伍代夏子(22回)

 

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伍代夏子は1961年、東京都渋谷区出身。

代々木八幡の鮮魚店に生まれ、鴎友学園女子高等学校卒業からレコードデビュー迄、どういう経緯で歌手になったのか、未公開のようです。


1982年、20歳の時、星ひろみ名義でレコードデビューするもヒットに恵まれず、1987年、4度目の改名、伍代夏子名義で「戻り川」の初ヒットを出すまで、長い不遇時代を経験。

1990年「忍ぶ雨」をヒットさせ、紅白歌合戦初出場。以降12年連続含む、出場回数22回。

ソニー演歌部門は「美人演歌」を売りにしており、伍代夏子は、その第一人者だったと言えます。

22位 水前寺清子(22回)


水前寺清子は1945年、熊本県生まれ。

水前寺清子は15歳の時、「コロムビア歌謡コンクール」に出場、2位になり、その後、コロムビアで11回レコーディングするも、レコードデビューには至らず。

その後、水前寺清子はクラウンレコードに移籍。

畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を、「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更しレコーディング。

1964年、念願のレコードデビュー。

デビュー曲が大ヒットした水前寺清子は、1965年、紅白歌合戦初出場。

その後は1986年まで22回連続出場。

うち紅組の司会を4回つとめた、水前寺清子は一時代を築いた国民的人気歌手でした。

22位 菅原洋一(22回)


菅原洋一は1933年、兵庫県出身。

国立音楽大学卒業後、1958年にタンゴバンド「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に参加、歌手デビュー。

しばらく菅原洋一は、レコードが全く売れない不遇時代を過ごすも、1967年、アルジェリア生まれのエンリコ・マシアスによるシャンソンを日本語訳詞した「恋心」のB面、「知りたくないの」が大ヒット。

その「知りたくないの」もドン・ロバートソン作曲の、洋楽の日本語訳詞曲なので、当時の菅原洋一の音楽志向が、よくわかります。

菅原洋一は同年、紅白歌合戦初出場。以降、1988年まで22年連続出場。

菅原洋一は歌謡歌手というより、正統派のタンゴ、シャンソン歌手として、当時も今も、とても高く評価されてます。

22位 松田聖子(22回)

1962年、福岡県生まれの松田聖子は、高校入学後、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募、二次審査で落選。

更に、ホリプロスカウトキャラバン九州大会にも応募するが、書類選考の第一次審査で落選。

高校2年の1978年、「ミス・セブンティーンコンテスト」九州地区大会で優勝。CBSソニーよりスカウトされる。

が、厳格な父親の反対や、東京の芸能プロダクションの乗り気のなさでデビューが遅れる最中、高校を中退して松田聖子は上京。

その松田聖子の行動力と熱意に押された、サンミュージックの社長が寮に住まわせ堀越高等学校に転入させ、1980年、レコードデビュー。

同年、紅白歌合戦初出場。その後は1980年代を代表するトップアイドルとして、9年連続出場。

松田聖子は途中、成功には至らなかったアメリカ進出などで、日本での活動中断期間があるも、2013〜2018年まで6年連続で、再び紅白歌合戦に出場してるので、出場回数は、まだ伸びそうです。

19位 SMAP(23回)

SMAPは、1988年にジャニーズJr.6名から結成され、1991年にCDデビュー。

メンバーの中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾。そして後に脱退しオートレーサーになった森且行は、デビュー当時全員10代。

同年、紅白歌合戦初出場。

1995年まで森且行含む6人組SMAPで、紅白歌合戦連続出場。森且行脱退後は5人組SMAPで、以降2000年まで、通算10年連続出場。

2001年8月、メンバーの稲垣吾郎が不祥事により芸能活動を自粛。残ったメンバー4人で活動を続けるも、紅白歌合戦の連続出場が、この年途切れます。

が、2003年、SMAPは「世界に一つだけの花」の大ヒットにより紅白歌合戦再出場。大トリをとつめ、2015年までの通算出場数は23回。

2016年、SMAP解散。

19位 八代亜紀(23回)


八代亜紀は1950年、熊本県生まれ。

八代亜紀は中学卒業後、地元熊本でバスガイドとして勤務するも、父親の反対を押し切り上京。

その後、八代亜紀は成人を超えた1971年にレコードデビューしてますが、その間、15歳で上京してからデビューまでのプロフィールは、銀座でクラブ歌手をしていた以外、殆ど公表されてません。

レコードデビューはしても、必ずしも売れていたわけではなかった八代亜紀は、無名時代の五木ひろしを有名にしたことで知られた、読売テレビのオーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場。

10週連続勝ち抜きで、グランドチャンピオン。

八代亜紀はこの番組で名前と顔を知られるようになり、1973年、シングル第四弾「なみだ恋」が大ヒット。

同年、紅白歌合戦初出場。以降1993年まで20年連続出場。

八代亜紀は2019年9月現在、最後の出場になった2001年まで、紅白歌合戦に23回出場してます。

19位 天童よしみ(23回)


天童よしみは1954年、和歌山県生まれ。

子供の頃より歌のうまかった天童よしみは、フジテレビ系列「日清ちびっこのどじまん」への出演を機に、1970年、同テレビ系アニメ「いなかっぺ大将」の主題歌、「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」で、レコードデビュー。

1972年、読売テレビ系「全日本歌謡選手権」で10週連続勝ち抜き、グランドチャンピオンに輝く。

天童よしみとしてレコードデビューを果たすも、その後、10年にも及ぶ長い低迷を経験。一度は引退も決意するも、両親の説得で思いとどまる。

1993年、天童よしみは39歳で紅白歌合戦初出場。「いなかっぺ大将」の主題歌から23年かかってます。

以降、天童よしみは2018年まで、23回出場。

17位 TOKIO(24回)

1989年、テレビ朝日のバラエティ番組「アイドル共和国」内で、城島茂と山口達也がバンドユニットを結成。

1990年4月、国分太一と松岡昌宏が城島茂と合流後、3名で最初のTOKIOを結成。

少し遅れて小島啓が加入し4人組となりました。

しばらくこの4人での活動が続きますが、山口達也がTOKIOメンバーに復帰します。

1992年頃から、ジャニーズJr.の中で頭角を現していた長瀬智也がサポートとして加入するようになり、CDデビュー前に小島啓が脱退。

という具合にTOKIOは、メンバー各々がCDデビュー前から話題をふりまいていたので、1994年のCDデビュー記者会見は、新人グループであるにもかかわらず、日本武道館でした。

TOKIOは、デビュー2ヶ月後に、その日本武道館でコンサートを行うということは、結成時から大勢のファンがついていたということですね。

同年、紅白歌合戦初出場。以降2017年まで24年連続出場。

しかし、2018年、メンバーの山口達也の不祥事が発覚。

TOKIOは音楽活動を休止。ジャニーズ事務所は山口達也との契約を解除した事により、同年の紅白歌合戦も選出されず、デビュー以来の連続出場記録は途絶えています。

17位 川中美幸(24回)

川中美幸は、1955年鳥取県生まれ。

川中美幸は1973年6月、17歳の時「春日はるみ」名義にて、「新宿天使」でレコードデビューするも、全くヒットに恵まれず、2年後に帰郷します。

1977年、川中美幸に改名し再デビューするも、ヒット曲のないま低迷。

1980年、川中美幸は文化放送の深夜放送「走れ!歌謡曲」のパーソナリティーに、局アナ以外で初めて抜擢されます。

深夜から早朝にかけて働く長距離運行トラック、夜行高速バスの運転手をメインターゲットに据えた同番組によって、1980年、自身の「二人酒」が大ヒット。

川中美幸は1981年、念願の紅白歌合戦初出場。以降2011年まで24回出場。

16位 布施明(25回)


布施明は1947年、東京三鷹市生まれ。

布施明はザ・ピーナッツに憧れ歌手を目指し、高校在学中に日本テレビ系のオーディション番組「味の素ホイホイ・ミュージック・スクール」に合格。

渡辺プロにスカウトされ、1965年にレコードデビュー。シングル第三弾、日本テレビ系列の青春ドラマ「青春とはなんだ」挿入歌「若い明日/貴様と俺」は、そこそこヒットはします。

が、布施明の紅白歌合戦初出場は1967年で、レコードデビューから2年かかってます。

その後1980年まで、布施明は14年連続で紅白歌合戦に出場。

人気絶頂だった布施明の連続出場が途切れたのは、世界的女優、オリヴィア・ハッセーとの結婚で、アメリカに渡ったからでした。

とはいえ、布施明の日本でのレコーディング、シングルレコード発売は続いており、1987年、布施明は7年ぶりに紅白歌合戦に出場するも、この後、突然シングルレコード発売は途切れます。

原因は1989年、オリヴィア・ハッセーとの正式離婚による、慰謝料などの家庭の事情。

そして離婚後帰国した布施明は1990年、3年ぶりに紅白歌合戦出場。

それからまた10年。2000年に布施明は、再び紅白歌合戦に連続して出場。2009年まで、布施明は通算25回出場しております。

14位 フランク永井(26回)


フランク永井は1932年、宮城県生まれ。

フランク永井は、幼少時より歌手に強い憧れがあり、1951年頃、東京で就職していた兄を頼り上京。

当時日本を占領統治していたアメリカ、進駐軍のキャンプ地で、トレーラー運転手、アルバイト生活を経、米兵相手のクラブ歌手として歌手デビュー。

そんなフランク永井は、のど自慢荒らしと異名をとっていたそうで、1955年、日本テレビの「素人のど自慢」の年間ベスト1に選ばれ、ビクターとレコード契約。

ジャズを得意にしてたフランク永井でしたが、ヒット曲に恵まれず、ディック・ミネや作曲家の吉田正の勧めもあり、歌謡歌手に転身。

1957年に、有楽町そごうのキャンペーンソングだった「有楽町で逢いましょう」が大ヒット!

同年、紅白歌合戦初出場。フランク永井の低音ボイスは一世を風靡。

以降1982年まで、紅白歌合戦26年連続出場。

が、1985年にフランク永井は、動機不明の首吊り自殺を図り、命は助かるも脳に後遺症が残り、以降、2008年、肺炎で76歳の生涯を終えるまでリハビリ生活で、歌手復帰はできませんでした。

14位 美川憲一(26回)

1946年、美川憲一は長野県生まれ。

美川憲一は、複雑な家庭の事情で「二人の母親」を食べさせるため高校を1年で中退。歌手を目指し東宝芸能学校に入学。

1964年、第17期「大映ニューフェイス」に合格。

美川憲一は古賀政男の指導を受け、男装・美少年キャラクターで1965年、19歳で歌手デビュー。

翌1966年、シングル第三弾「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットするも、紅白歌合戦出場ならず。

美川憲一の紅白歌合戦初出場は、レコードデビューから3年の1968年までかかってます。

その後は順調に1974年まで、7年連続で紅白歌合戦に出場しますが、ヒット曲は出なくなり人気は低迷。更に、1977年に大麻取締法違反で逮捕(1984年にも2度目の逮捕)。

美川憲一の歌手生命は、これで終わりだと誰もが思いましたが、バブル時代の1980年代末期、折からのモノマネブームで、美川憲一の顔真似、フリ真似をするコロッケが大ブレイク。

本人の美川憲一も、この頃より完全にオネエキャラ、毒舌家をやり出し、それがウケにウケ、1991年、17年ぶりに紅白歌合戦に出場。

当時の美川憲一は「奇跡のカムバック」と言われましたが、その後も2009年まで、19年連続で出場。派手な衣装とステージは、紅組の小林幸子と並び、紅白歌合戦の名物になりました。

13位 村田英雄(27回)


村田英雄は1929年、福岡県生まれ。

1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社前社長に自ら手紙を書き、マネージメントを依頼。「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京。

浪曲師の村田英雄は1958年、古賀政男に見出され、得意の演目「無法松の一生」を歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で29歳にして歌手デビュー。

村田英雄は人気歌手になるも、紅白歌合戦初出場は1961年。既に32歳になっていました。

1972年まで、村田英雄は紅白歌合戦12年連続出場。6歳年上の三波春夫共々、歌謡浪曲の大御所として白組の顔になっていました。

そんな、人気の村田英雄の紅白歌合戦連続出場が途絶えたのは、糖尿病の悪化が原因でした。

村田英雄は、翌1974年より1989年まで、再び15年連続で紅白歌合戦に出場しますが、病状は悪化。

2002年、合併症の肺炎のため死去。73歳没。

12位 都はるみ(29回)


1948年、京都生まれの都はるみは、「歌手になります」と宣言して高校中退。

都はるみは1963年、第14回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。翌1964年、「困るのことヨ」で18歳でレコードデビュー。

同年、シングル第3弾「アンコ椿は恋の花」が大ヒット。日本レコード大賞新人賞を獲得しますが、紅白歌合戦出場ならず。

都はるみの、紅白歌合戦初出場は1965年。1984年まで20年連続出場。

人気・実力ともに絶頂だった1984年、36歳時「普通のおばさんになりたい」の名言を残し、突然の歌手引退を宣言。

同年の紅白歌合戦出場を最後に、歌手引退。

都はるみはその後、音楽プロデューサー、コメンテーターとして活動していた1989年、52歳で亡くなった美空ひばりの訃報に触れ、歌手復帰を決心。

同年より1997年まで、9年連続で紅白歌合戦出場。通算29回。

11位 坂本冬美(30回)

坂本冬美は1967年、和歌山県生まれ。

坂本冬美は高卒後、昼間は普通に勤務しながら、演歌歌手を目指し歌の練習のため、カラオケ教室に通っていたそう。

そして1986年、坂本冬美はNHKの「勝ち抜き歌謡天国」の和歌山大会で名人となり、「関西演歌大賞カラオケコンクール」でも優勝。

勝ち抜き歌謡天国で、歌唱指導を担当していた猪俣公章の勧めで上京。内弟子になり、1987年「あばれ太鼓」でレコードデビュー。

翌1988年、坂本冬美は紅白歌合戦出場。以降、2001年まで14年連続出場と、順風満帆の歌手生活でしたが、2002年に精神面、体調面の悪化で休養宣言。

2003年に2年ぶりに紅白歌合戦に復帰後は、2018年まで16年連続で出場を果たしてます。

9位 三波春夫(31回)


1923年、新潟県で生まれた三波春夫。

1936年、家業が傾き、三波春夫13歳の時、家族で上京。この頃から、当時人気の浪曲師志望が、高まっていったそうです。

1939年、三波春夫は志望通り「日本浪曲学校」への入学を決め、同年10月、東京・六本木の寄席「新歌舞喜」で初舞台。プロデビューしてます。

1944年、三波春夫は日本の敗戦1年前に徴兵。満州国に出兵。

三波春夫は敗戦を同地で迎えソ連軍の捕虜となり、22歳から26歳までの約4年間、シベリア抑留生活を過ごしてます。

1949年9月、三波春夫は帰国。浪曲師として復帰するも、浪曲は次第に衰退し始めるであろうと予感。

1957年6月、三波春夫は33歳にして歌謡界デビュー。1958年、紅白歌合戦初出場。

1986年まで29年連続出場。常に笑顔の三波春夫の声ときらびやかな衣装、ステージは、当時の白組の華でしたが、同年を最後に紅白歌合戦出場を勇退発表。

が、三波春夫はその後も1989年、1999年に2度、紅白歌合戦に出演しますが、2001年77歳で他界。

9位 郷ひろみ(31回)

1955年生まれの郷ひろみは、1972年16歳の時、「男の子女の子」でレコードデビュー。

レコードデビュー当時、既に郷ひろみはジェニーズ事務所にスカウトされ、フォーリーブスの弟分と紹介されており、テレビ出演もしていたので、ファンの間では知られていました。

1973年、郷ひろみは紅白歌合戦初出場。兄貴分のフォーリーブスは、4回目の出場でした。

ちなみに、郷ひろみ含む新御三家と言われた野口五郎は、デビューが早かったこともありこの年は2度目の出場。デビューの遅かった西城秀樹は翌1974年が初出場。

郷ひろみは人気絶頂の1975年、事務所移籍でマスメディアを騒がせますが、ヒット曲も人気も続き、1985年まで13年連続で紅白歌合戦出場。

その後も郷ひろみは、5年ぶり、4年ぶり、9年ぶりと紅白歌合戦に出場。2010年から、9年連続出場継続中(2019年8月現在)。

三波春夫と同じ、31回出場してます。

8位 小林幸子(33回)

 

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1953年、新潟県生まれの小林幸子は、1963年、9歳の小学4年時にTBS「歌まね読本」でグランドチャンピオンとなり、審査委員長の古賀政男にスカウトされます。

小林幸子は翌1964年に、新潟より一家で上京。古賀事務所に所属し「ウソツキ鴎」でレコードデビュー。

ットし、小林幸子は「天才少女歌手」「美空ひばり二世」と賞賛され、映画でも子役として活躍。

が、ヒット曲は続かず、小林幸子26歳時の1979年に発表した「おもいで酒」がヒットするまで、15年間の不遇を過ぎしてます。

同年、小林幸子は紅白歌合戦初出場。以降2011年まで32回連続出場。毎年の豪華衣装で、話題を提供し続けました。

2015年、小林幸子は4年ぶり33回目の紅白歌合戦に、特別出演しておりますが、以降は出場が途絶えてます。

7位 島倉千代子(35回)


1938年、東京は品川生まれの島倉千代子は、2013年に他界してるので、存命でない紅白歌合戦出場歌手の中では、2019年9月現在、最多出場者です。

島倉千代子は1953年、日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになり、1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。

1955年、16歳の島倉千代子は「この世の花」でレコードデビュー。

この世の花」は大ヒットしましたが、紅白歌合戦初出場はならず。この当時の紅白歌合戦は、新人、若手には敷居が高かったようです。

1957年、島倉千代子はレコードデビュー3年目、19歳にして紅白歌合戦初出場。1つ年上の美空ひばりと共に、このあと島倉千代子は紅組の顔になります。

島倉千代子は、プライベートでは艱難辛苦ありましたが、1996年まで紅白歌合戦は34回出場。

2004年、8年ぶり35回目の紅白歌合戦出場を最後に、2010年12月に肝臓癌を発症。

2013年、75歳で他界。

5位 細川たかし(39回)


細川たかしは1950年、北海道虻田郡真狩村の7人兄弟の農家の末っ子として生まれ。

細川たかしは地元の高校を中退、歌手を目指し札幌に出て、昼間は自動車整備工をしながら、夜はすすきので「流し」としてプロ歌手デビュー。

すすきのの幾つかの店で、専属クラブ歌手になり、昼間の仕事をやめ歌手一本の活動をしていた時、東京の芸能プロダクションより、レコードデビューの話しが来たそう。

細川たかしには既に、年上のナイトクラブで働いていた妻も子もあり、クラブ歌手で生計もたてていたので、上京は悩んでいたそうですが、奥様の後押しで決断。

1年売れなかったら戻ると、妻子に約束し上京。

1975年、上京した24歳の細川たかし、「心のこり」でレコードデビュー。

いきなり「心のこり」は大ヒット。同年の紅白歌合戦に初出場。以降、2015年まで39回出場。

が、細川たかしは、2015年限りで後進に道を譲りたいと、2016年の紅白歌合戦出場を辞退。

以降、細川たかしは、紅白歌合戦は勇退というスタイルを貫いてます。

5位 和田アキ子(39回)

 

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1960年生まれの和田アキ子は、15歳の頃より大阪のジャズ喫茶、ゴーゴークラブで歌手デビュー。

パワフルな歌唱でR&Bを歌う、若き和田アキ子の評判を聞きつけたホリプロ社長が、直々にスカウト。

1968年、和田アキ子は「星空の孤独」でレコードデビュー。


この曲はヒットに至らなかったのですが、和田アキ子は1993年の紅白歌合戦出場時、このヒットしなかった曲を歌ってるので、思い入れが強い曲なのでしょう。

1969年、第二弾シングル「どしゃぶりの雨の中で」が大ヒットするも、この年も紅白歌合戦出場ならず。

和田アキ子が紅白歌合戦に初出場するのは、翌1970年。「笑って許して」。

以降、2018年まで紅白歌合戦、39回出場。

4位 石川さゆり(41回)


1958年生まれの石川さよりは、歌手を目指し熊本から一家で横浜市に移住。

1972年、中学3年在学中、フジテレビ系列の「ちびっ子歌謡大会」に参加し合格。

ホリプロにスカウトされ芸能界デビュー。

が、同時期、石川さゆりより1学年下の、日本テレビ系列の「スター誕生!」出身の森昌子、桜田淳子、山口百恵が「花の中3トリオ」と呼ばれ注目。

石川さゆりの1973年3月のデビュー曲、「かくれんぼ」は「花の中3トリオ」の影に隠れ、ヒットに至らず。

紅白歌合戦出場も、森昌子の1973年初出場、桜田淳子、山口百恵は1974年初出場に対し、石川さゆりは1977年初出場と遅れてます。

が、その時歌ったヒット曲「津軽海峡冬景色」は、2019年9月現在まで、紅白歌合戦で10回歌われており、石川さゆりの紅白歌合戦出場回数も41回。

石川さゆりは、2016〜2018年は3年連続で紅組のトリをつとめる、今や国民的歌手になってます。

2位 森進一(48回)

 

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1947年、母子家庭に生まれた森進一は、集団就職で鹿児島から大阪に移住。

森進一は家族への仕送りの為、より高い賃金を求め17回も職を変え、1965年、フジテレビ系視聴者参加番組の「リズム歌合戦」で優勝。


東京パンチョスのバンドマスター、チャーリー石黒にスカウトされ、バンドボーイとしてプロ活動を開始。

1966年、森進一はデビュー曲「女のためいき」を大ヒット。その独特の「かすれ声」は、同時期デビューの青江三奈とともに、マスメディアでもお茶の間でも話題になりました。

また、森進一には15歳で故郷を後にする集団就職、そして母子家庭の苦労人イメージが、若くして定着していました。

が、森進一の紅白歌合戦初出場は、シングル第9弾「花と蝶」での1968年と間が空いておりますが、以降、自身で紅白歌合戦勇退宣言をした2015年まで、連続48回出場。

この森進一の48回連続出場は、五木ひろしと並び歴代トップタイ記録です。

2位 五木ひろし(48回)


1948年生まれの五木ひろしは、中学卒業後、歌手を目指し関西音楽学院に入学。

1964年、作曲家の上原げんとを紹介され上京。

1965年、10代で松山まさる名義で歌手デビューするもヒットに恵まれず、デビューしてから約5年間、2度も芸名を変更、シングル10枚発表するも、1960年代は無名の歌手時代を過ごす。

1970年、銀座でクラブ歌手をやっていた時、故郷福井の放送局福井放送のプロデューサーの勧めで、よみうりテレビ制作のオーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場。

10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝いた五木ひろしは、レコード歌手として1971年に再デビュー。

五木ひろし名義で発表した「よこはまたそがれ」が大ヒット。

松山まさる名義で歌手デビューしてから6年。五木ひろしは1971年の紅白歌合戦に初出場。

以降、五木ひろしは、2018年まで紅白歌合戦48回連続出場。森進一の連続出場記録、出場回数に並んでおります。

1位 北島三郎(50回)


1936年生まれの北島三郎。

北島三郎は、高校在学中に「NHKのど自慢」に出演。

鐘2つだったが、司会の宮田輝に褒められたことで、歌手になれるかも?と思うようになったそう。

1954年、高校中退後上京した北島三郎は、音楽学校に通いながら渋谷を拠点に「流し」を始め、プロの歌手活動を開始。

噂を聞きつけたレコード会社の芸能部長が、「流し」の北島三郎を船村徹に紹介。1962年にレコードデビュー。

上京後、8年経ってのレコードデビュー。

既に、アパートの大家の娘と結婚もしてた、「新人」の北島三郎(デビュー当時は、独身としていた)は、翌年の1963年に早くも「ギター仁義」で、紅白歌合戦に初出場。

以降2018年9月現在、通算50回出場。

そのうち北島三郎は、半分以上はトリ前、大トリの、紅白歌合戦の「顔」です。

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