ギランバレー症候群の有名人10選まとめ

ギランバレー症候群とは、何らかの感染症がきっかけで手や足の筋力が低下していく病気で、重症の場合は歩行困難や呼吸困難を引き起こす難病です。

はっきりとした原因は未だわかっていませんが、多くの場合は風邪や下痢などの症状から始まると言われています。

感染症を患ってから1~4週間後に、身体に痺れや痛みなどの障害が生じていくとされていますが、ギランバレー症候群の症状にすぐ気づけない患者も多くいるようです。

 

普段当たり前のように動かしている筋肉が、突如機能しなくなってしまう恐ろしい病気ですが、軽症の場合は特に治療せずともいつの間にか自然治癒する場合もあるといいます。

また全体の約8割の患者は、後遺症なく日常生活を取り戻していると言われています。

一方で、2割の患者には後遺症が残ってしまい、車椅子生活を余儀なくされたり、中には話すこともままならず、瞬きすら自力でできなくなってしまう重症患者も。

そして5%の患者は死亡していると言われており、人によって症状の重さや病気を患っている期間は全く違うようです。

 

年間で10万人に1~2人の割合で発症すると言われていますが、芸能人や有名人も例外ではありません。

幼少期のころに病気を発症していた人や、大人になってから発症した人など、「実はギランバレー症候群の患者だった」という有名人は多くいます。

今回は、ギランバレー症候群の有名人をまとめました。

大原麗子

大原麗子は昭和を代表する女優の一人で、テレビドラマを中心に活躍していました。

バラエティ番組にはあまり出演してきませんでしたが、『ダウンタウンDX』では本人の希望でコントに挑戦したり、カツラや着ぐるみを着るなど、仕事への熱意が非常に高い性格であったことがわかります。

人気番組『SMAP×SMAP』の名物コーナー、BISTRO SMAPの第一回目のゲストでもありました。

 

演技に対する想いが強く、女優としてのキャリアを順調に積んできましたが、20代の終わりにギランバレー症候群を発症しました。

しかし1年程の療養で病を克服し、女優業に復帰後も『男はつらいよ』や大河ドラマなどに出演しました。

ギランバレー症候群が再発?


大原麗子は50歳を超えてから、ギランバレー症候群が再発したとして芸能活動を休止しています。

そして活動休止中にギランバレー症候群の主治医が亡くなってしまい、その後うつ病になってしまいました。

更に自宅で転倒して、手首骨折や膝の打撲などの大怪我を負ってしまうなどの不運が続きます。

本人は転倒した原因を「ギランバレー症候群のせい」だと思っていたようです。

 

しかし専門医の見解では、ギランバレー症候群は滅多に再発しない病気のため、うつ病など精神的に不安定だったことから、「ギランバレー症候群は再発しておらず、本人の思い込みではないか」と言われています。

そして転倒の大怪我から約1年後、不整脈による脳内出血で自宅で死亡しているのが見つかります。

発見時にはすでに死後3日ほど経過しており、昭和の大女優の孤独死は、当時大きくニュースになりました。

福永泰


元プロサッカー選手で、プロ引退後も解説者やコーチ、監督など指導者として活動した福永泰も、ギランバレー症候群を発症しています。

福永泰がギランバレー症候群になったのは、浦和レッズの選手として現役でプレーしていたときのことでした。

プロ2年目で発症

福永泰は大学卒業後の1995年に、Jリーグの浦和レッズに加入後、レギュラーを獲得しました。

しかしプロ2年目に入った1997年、練習中に突然身体に力が入らなくなってしまいます。

ボールを蹴るにも力が入らず、通常の半分ほどしかボールは飛ばなかったそうです。

原因がわからないまま日々が過ぎていき、後日病院でギランバレー症候群と診断されました。

その年のリーグ戦には1戦も出場することができず、悔しい思いを抱えながらリハビリに励み、見事1998年は試合に復帰しました。

 

念願のプロ入りからすぐ病魔に侵されてしまい、他の選手が活躍している姿を見ながら闘病生活を送ることは、精神的にとても辛いものがあったと思います。

1年後に再びレギュラーとして試合に出場するまでに、並々ならぬ努力があったことは間違いありません。

安岡力也


俳優やロック歌手、タレントとして映画やバラエティ番組などマルチに活躍していた安岡力也。

イタリアと日本のハーフで、日に焼けた強面な容姿はとても迫力があり、大きい身体を活かして過去にはキックボクサーとしてもデビューしていました。

ヤクザや不良ものの作品に出演していた印象が強いですが、バラエティ番組などでは子煩悩で愛嬌ある一面を見せ、ギャップを感じるキャラクターでも人気でした。

芸能界の暴れん坊とも呼ばれ、男らしく強靭な肉体を持つ安岡力也も、ギランバレー症候群で長期にわたる療養生活を送っていました。

始めは風邪だと思い込んでいた


最初は身体中の節々が痛くなって熱もでたため、ただの風邪だと思い、病院で点滴をしてもらったり風邪薬を飲んで過ごしました。

しかし症状は一向に良くならず、大きな病院で検査してもらいましたが原因は判明しませんでした。

そして検査を受けてから3日後に、急に全身の力が抜けて膝からガクンと崩れ落ち、立ち上がることができなくなってしまいます。

病院で再検査を受けた結果、「ギランバレー症候群の疑いがある」と医者から告げられました。

壮絶な闘病生活

その後は症状がどんどん悪化していきます。

次第に物を掴むことができなくなり、食べ物を咀嚼することも、呼吸することも自力ではできなくなってしまいました。

そのため、脇腹に通した管から栄養補給し、気管を切開して人工呼吸器を使用しました。

 

ギランバレー症候群になった安岡力也の闘病生活は約4年に渡り、100キロ以上あった体重は70キロまで激減しました。

闘病中はリハビリに励み、好きだったお酒や煙草も断って、栄養バランスを意識した食事を心がけたといいます。

やがて症状は落ち着きだし、体重も現役のころと同じくらいまで戻って、見事ギランバレー症候群に打ち勝ちました。

 

そしてギランバレー症候群完治後に芸能界へ復帰し、闘病中の苦労をテレビで語ることも多かったですが、2012年に心不全で亡くなってしまいます。

長期の療養期間後すぐの訃報に、ファンや格闘技界、俳優仲間などの多くの人が悲しみに暮れました。

兼元謙任


Q&Aサイト『OKWave』の創業者である兼元謙任(かねもとかねとう)もギランバレー症候群でした。

成功者として本も出版している兼元謙任ですが、これまで様々な辛い経験をしてきたといいます。

 

小学5年生の頃に自身が在日韓国人3世であることを両親から聞かされ、その直後に同級生からの虐めが始まります。

日本で生まれて日本人として生活していたにも関わらず、国籍が日本じゃないというだけで虐められ、精神的に病んで対人恐怖症になってしまいました。

虐めの内容は壮絶なもので、そのころに虐めで受けた怪我が原因で、現在も右目が見えづらいといいます。

もともと身体が弱かったことに加えて、学校で毎日虐めを受けることのストレスが重なり、どんどん免疫力が低下していったことが、ギランバレー症候群の発症のきっかけではないかと話しています。

過酷な治療が続いた入院生活

 

兼元謙任に対する同級生からの虐めは小学校卒業まで続き、精神的にも肉体的にも異常が出始めます。

中学校へ進学する頃にはほとんど身体が動かなくなってしまい、病院で検査してもらった結果、医師から「ギランバレー症候群かもしれない」と言われます。

そしてすぐに入院することになり、その日から過酷な治療が始まります。

 

入院中は、背中から針を刺して脳脊髄を採取する検査が何度も行われ、あまりの痛さに当時は怒りと辛さに耐える毎日だったといいます。

次第に自分で頭を支える筋力もなくなってしまい、首はベルトで吊られる状態にまでなってしまったそうです。

ステロイドの集中投与も始まり、大きな錠剤を1日に17錠も飲み、様々な副作用にも苦しみました。

顔が丸くなるムーンフェイスにもなり、「当時は辛かったという記憶しかない」と語られています。

 

そのような生活を半年ほど続けていくうちに徐々に筋力が戻っていき、次第に通学もできるようになります。

出席日数がギリギリ足りるところで、中学校を無事卒業しました。

その後もステロイド薬は飲み続けましたが、大学に入学してしばらくしたころには薬を完全に断つことができ、遂に他の人と同じような日常生活を取り戻すことができたそうです。

治療を乗り越えて精神力を養えた

当時中学生だった兼元謙任にとって、入院中の治療は辛いものでしかありませんでしたが、治療を乗り越えて「呼吸できること、歩けること、食べられること、便がでることなど、当たり前のことが実はありがたいんだと実感した」と話しています。

そしてこれまでの経験から、「治療や虐めを乗り越えて精神力が養えた」と前向きに話し、その後の苦労も乗り越えてきたといいます。

実は兼元謙任は、大学卒業後にすぐに成功したわけではなく、仕事で失敗して妻や子どもが出ていってしまったり、住む場所を失いホームレスになって公園で過ごしていた時期もありました。

普通なら心が折れてしまう状況ですが、過去の経験から「大体のことは大丈夫」と考えることができ、現在の姿があるといいます。

有村竜太朗


ビジュアル系ロックバンド、Plastic Treeのボーカルである有村竜太朗もギランバレー症候群でした。

Plastic Treeは1999年頃から、音楽ランキングに浮上し出して安定した人気を獲得していましたが、有村竜太朗は2010年にギランバレー症候群を発症し、その年の年末に予定されていたライブを2公演中止しています。

突然のライブ中止と難病の公表はニュースにもなり、当時は多くの人が心配しました。

高熱の翌日に身体に異変

2010年12月、有村竜太朗は高熱を出した翌日に身体の脱力感を覚え、病院へ検査しに行きます。

そして医師からはギランバレー症候群と診断されましたが、1週間後にライブを控えていたため、ライブを実施する方向で話し合いを進めようとします。

しかしドクターストップがかかってしまい、年末のライブは中止となって、その後有村竜太郎は入院して治療に励みました。

発症から1か月で完治

一時は首から下が全く動かなくなってしまうほどで、友人であり人気ミュージシャンの清春が、ニュースを見て急いで地方から駆け付けたというエピソードもありました。

難病で入院中と聞いていたため、深刻な状況を想像して病室に向かいましたが、清春の予想に反して状態は良く見えたそうです。

そのころ有村竜太朗は、既に上半身が動かせるほどまで回復していたことに加え、入院中にも関わらず身なりが整っていて清潔感があったことから、清春は体調の心配よりも「あれ?髪の毛サラサラじゃん」という一言が先に出てしまったといいます。

有村竜太朗の場合、早期発見ですぐに治療にあたることができたため、身体が動かなくなった期間は2日ほどありましたが治療後の回復は早く、なんと1か月後の2011年1月には完治しました。

 

有村竜太朗は、病気を発症する数か月前に実の父親を亡くしていて、「精神的にとても参った状態だったことも原因で、神経が大きく関係するギランバレー症候群になってしまったかもしれない」と振り返っています。

そして3月に予定されていた全国ツアーで完全復帰を果たし、その後も後遺症などなく活動を続けています。

美馬寛子

美馬寛子
過去にミス・ユニバース日本代表にも選出され、世界大会ではTOP15入りという成績を収めたモデルの美馬寛子も、幼少期にギランバレー症候群を経験しています。

ミス・ユニバースのインタビューでは、自身が過去に難病を経験したこともあり、「世界中の難病に苦しむ子どもたちに勇気を与えるためのボランティア活動を目標にしている」と話しています。

微熱を感じた日の夜に倒れる

中学1年生のころ、身体が熱っぽくて体調が良くないと感じる日があり、その夜に自分の部屋で突然倒れてしまいました。

倒れているところを父親に発見されましたが、美馬寛子自身は倒れた記憶が全くなかったそうです。

しかし父親に起こされたときに、右手に力が入らず、右足の足首からつま先までの感覚が全くないことに気付きます。

 

翌日美馬寛子は学校を休み、「脳の病気ではないか」と心配した母親に連れられて、総合病院へ行きました。

小児科から脳外科に移され、様々な検査をしましたが原因がわからず、最終的に髄液を採ってギランバレー症候群であることが判明しました。

検査結果を聞くときに、最初に母親だけが診察室に呼ばれたことで、「これはあまり良くない結果なのかも」と予感したといいます。

治療せずに完治する

ギランバレー症候群を発症してから測った握力は3キロしかなく、医師からは「このまま悪化すると呼吸困難になり、人工呼吸器をつける可能性がある」と告げられます。

医師から病気について聞くうちに、事の深刻さを徐々に理解していきましたが、治療法が特にないということから、ひたすら安静に療養する日々を過ごしました。

そしてわずか半年ほどで回復し、退院後も自宅で短期間療養して、再び学校へ通いだします。

病気が完治してからは、新しく陸上競技の走り高跳びを始め、その後は全国大会に7回も出場するなど、後遺症は一切なく日常生活を送っています。

釈由美子


女優の釈由美子も2009年に自身のブログで、「ギランバレー症候群と診断された」と明かしています。

ブログによると、「高熱と腸炎を伴う風邪をひいてしまい、症状が落ち着いたと思ったところで手足のしびれがでて身体が動かなくなってしまった」とのこと。

そしてマネージャーと一緒に向かった病院で、医師から「ギランバレー症候群ですね」と診断されました。

しかし「1週間もすれば完治する」と医師から言われ、「2、3日ゆっくり安静します」とブログに綴られていました。

ブログで公表直後に記事を削除


ブログでギランバレー症候群であることを公表した釈由美子ですが、診断した医師によると、釈由美子の麻痺の症状はかなり軽度で、末梢神経炎程度のものだったそうです。

しかし釈由美子が大々的に「ギランバレー症候群だ」とブログで記事にしてしまったことで、医師はインパクトある病名が独り歩きして、世間から誤解を招くことを恐れました。

 

医師は釈由美子にすぐに連絡をとってその旨を伝えると、その日のうちにブログの記事は削除されました。

しかし、「釈由美子が難病のギランバレー症候群になった」という情報はすぐにネットで出回ってしまい、ブログやネットニュースを見た人々は突然の難病報告に驚かされました。

その後は釈由美子から、特にギランバレー症候群について触れられることはなかったため、医師の診断通り症状はかなり軽症だったと思われます。

芳根京子


現在も多くのドラマや映画に出演し、演技力に定評がある若手女優の芳根京子も、ギランバレー症候群の患者でした。

朝ドラのヒロインをはじめ、様々な作品で活躍している彼女の姿からは、とても難病を患っていたとは想像できませんが、ギランバレー症候群になったのは中学2年生の頃だそうです。

朝ドラの会見で公表

2016年に行われた朝ドラの会見で、自身がギランバレー症候群だったことが公表され、当時は「学校に普通に通うことも難しかった」と振り返っていました。

ギランバレー症候群になったことで、身体に力が入らなくなってしまう症状に悩まされてきましたが、1年程で自然と快方に向かって治ったそうです。

完治後の学校生活では、足が速くなったり持久走で1位になるなど、運動神経が良くなったように感じたといい、現在も後遺症などもなく生活への支障も全くないとのことです。

 

しかし自然回復したとはいえ、これまで普通に動かせていた身体に力が入らなくなってしまうことの恐怖は大きかったと話しています。

中には死んでしまう例もあると知ったときには、命の重さを実感したそうです。

気持ちで負けず前向きに過ごすことを心掛けた

実は朝ドラの会見前にも、病名までは明かしていませんでしたが、自身のブログで病気について触れていました。

ブログに寄せられたファンからの質問をピックアップし、芳根京子が答える形でブログが綴られています。

 

ファンから「僕は大きな病気になってしまい、免疫力をあげるために笑顔が必要です。京子ちゃんの笑顔の秘訣を教えてください。」という質問に対して、「私も中学生の頃に難病になったことがある」と明かされていました。

続けて、「実際病気になると笑顔になることは難しい」「(だから)気持ちで負けないように毎日楽しいことを探していた」「周りの人とコミュニケーションとったりお笑いを見たりして過ごした」と振り返っています。

 

病気になって落ち込むことは当たり前ですが、気持ちを前に向かせるために努力していたことがわかります。

現在女優として成功しているのも、過去に難病を乗り越えてきた気持ちの強さが関係しているのかもしれません。

フランクリン・ルーズベルト


アメリカ第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトも、ギランバレー症候群だったと言われています。

在任期間は1933年~1945年と一昔前のことですが、歴代大統領の中でも特に知名度の高い人物ではないでしょうか。

誰もが名前を知っているフランクリン・ルーズベルトですが、日常生活で車椅子を使用していたことは、当時ほとんど知られていませんでした。

 

大統領になる前の1921年、家族と旅行をしているときに、高熱や全身の麻痺、呼吸困難に見舞われてしまいます。

妻は懸命に看病しましたが、後遺症として下半身に麻痺が残り、車椅子での生活を余儀なくされています。

当時は現代のように医学が発達しておらず、ポリオという手足に麻痺が残る病気だと思われていました。

下半身不随を隠しながら大統領になった

ポリオに罹患したと思われていた当時、フランクリン・ルーズベルトは39歳で「政界の若きスター」と呼ばれ、世間からも期待されていました。

しかし身体に麻痺があると世間に知られてしまえば大統領にはなれないと思い、徹底的に自身の障害を隠すことを決めます。

足元を隠すために、植木や立ち木を植え替えるように指示を出してカムフラージュするなど、周囲に事細かく指示を出すと同時に、彼は自力で歩くための猛特訓に励みます。

努力が実り、数年後には数メートルの歩行や長時間の演説でも立ち続けられるようになりました。

 

また、フランクリン・ルーズベルトは新聞記者たちに「車椅子に乗った姿は取らないでほしい」と頼みます。

記者たちも、「身体的理由で大統領選や公務の不利になることはしない」というフェアな考えから、彼が車椅子に乗っている写真はほとんど撮られませんでした。

結果としてフランクリン・ルーズベルトの車椅子姿の写真は、現在2枚ほどしか残っていないそうです。

病気を生涯隠し続けた

こうしてフランクリン・ルーズベルトは、下半身不随で車いす生活を送っていることを世間にはほとんど知られませんでした。

それでも完全に隠しきることはできず、ワシントン政界では次第に彼の身体障害が知られるようになりましたが、これまでの並々ならぬ努力や挑戦心は人々から尊敬の対象となりました。

しかしフランクリン・ルーズベルトは、自身の下半身不随について生涯隠し続けました。

死後にギランバレー症候群と判明する

その後医学の発達とともに、フランクリン・ルーズベルトの病気の症状が、ポリオではなくギランバレー症候群の症状に多く当てはまることが判明します。

彼の死後に、ギランバレー症候群であったという可能性が浮上したのでした。

ゴルゴ13


ゴルゴ13は、もはや説明不要な誰もが知っている日本の漫画本で、もっとも発行巻数が多い単一漫画シリーズとしてギネス世界記録に認定されています。

主人公のゴルゴは本名はおろか、生年月日や国籍、経歴など本人に関する情報は不明で謎に包まれた人物ですが、作中ではゴルゴがたびたびギランバレー症候群に悩まされる様子が描写されています。

右手が痺れる持病があるという設定

一流スナイパーであり暗殺者のゴルゴは、1年に1度右手が痺れるという持病を持っている設定があります。

この右手の痺れの症状がギランバレー症候群といわれており、作中でも何度も病名がでています。

 

初めてギランバレー症候群を発症したのがコミックス第6巻『喪服の似合うとき』で、ゴルゴが銃を抜き臨戦態勢に入ろうとしたところ、右手が痺れて銃を落としてしまいます。

その後、病院で医師からはギランバレー症候群と疑われますが、検査ではギランバレー症候群ではないという結果に。

しかしそれ以降も、手の痺れを発症して崖から落ちたり、症状を緩和する漢方を求めて薬剤師を訪ねたりと、ゴルゴにとって手の痺れが唯一の欠点で弱点だということが読者に広く知れ渡っていきます。

何度も病気が再発している謎

そしてコミックス第155巻『再発・ギランバレー症候群』では、タイトルの通りギランバレー症候群が再発することがメインテーマとなっています。

過去に病院で「ギランバレー症候群ではない」と診断されたにも関わらず、第155巻では手の痺れを感知したゴルゴ自身が「ギランバレー症候群・・・」と呟いていることから、やはり今までの手の痺れはギランバレー症候群だったということになります。

 

これまで何度も大事な場面で、右手が痺れて危機的状況に陥ってしまっていたこともあり、読者からはゴルゴがギランバレー症候群であるということに再び注目が集まります。

しかし実際は、ギランバレー症候群は再発する可能性が極めて低い病気であることや、過去に医師から診断された結果とゴルゴ本人の認識の違いなどから「設定がうまく詰められていないんじゃないか」「やはりギランバレー症候群ではないのではないか」など、現在もファンからは様々な考察がされています。

 

ギランバレー症候群を患ったことがある有名人は意外と多く、症状の度合いや回復までの経過は人によって様々でした。

原因がはっきりと解明されておらず、誰でもかかってしまう可能性がある恐ろしい病気ですが、早く治療を始めれば症状を軽度に抑えられることもあるようです。

有名人がギランバレー症候群の体験を広めることで、病気がもっと世間に知れ渡り、早期発見に繋がっていくかもしれません。

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