2世タレントの芸能人10選まとめ!実は大成功した人も?

芸能人

日本人は政治の世界しかりですが、芸能の世界も二世タレントが好きなようで、又、親が有名なればなるほど、最初からその子はもてはやされます。

しかし、様々な理由ですぐに消えてしまう二世タレントが、多々いるのは、今も昔も変わりません。

特に二世タレントの場合、もてはやされてるうちは良いですが、一度、何か不祥事を起こしたり、問題を起こしたりすると、その分、有名人の親含め、マスメディアが徹底的に叩くのも、日本の常。

よって二世タレントと言えど、実力なく親の七光り、威光だけで長年に渡り活躍することは不可能。

又、どこの世界もしかりですが、最低限の良識と常識も持ち合わせていないと、消えてしまいます。

そこで、そんな二世タレントの成功した芸能人10選、まとめてみました。

長嶋一茂

長嶋一茂の父、長嶋茂雄は1958~1974年の現役時代、今に繋がる日本プロ野球の人気を、決定的にした国民的英雄、Mr.ジャイアンツ。

そして、読売ジャイアンツ終身名誉監督です。

そして母、亜希子は田園調布雙葉中学校・高等学校在学中に、米国留学。

ミネソタ州の聖テレサ大学を卒業した、当時は、かなり珍しい経歴履歴を持った生粋のお嬢様。

1964年、亜希子は容姿端麗のうえ堪能な外国語を駆使し、東京オリンピックのコンパニオンとして活躍。

当時、対談で亜希子と一緒になった長嶋茂雄が一目ぼれ。知り合って40日でスピード婚約。1965年に挙式。

そして、1966年に生まれたのが長嶋一茂。

そういうこともあり、長嶋一茂は、生まれた時からマスメディア注目!の子供だったわけです。

一時は辞めていた野球を、高校時代から再開した長嶋一茂は、立教大学4年時、春のリーグ戦は打率.340で、満票でベストナイン(三塁手)に選出。

秋のリーグ戦でも4本塁打、16打点(打点王)を叩き出す大活躍で、二期連続ベストナインに選出。

長嶋一茂は、日米大学選手権の日本代表メンバーにも選ばれたので、1987年、横浜大洋ホエールズとヤクルトスワローズの2球団が、ドラフト1位指名。

抽選の結果、交渉権を獲得したヤクルトスワローズに長嶋一茂は入団するも、学生野球と違い天才の中の天才が集まるプロ野球の世界では、思うような成績は残せませんでした。

が、長嶋一茂は現役引退後、個人事務所「ナガシマ企画」を設立し芸能人に転身。

タレント、俳優、キャスターとして長年活躍。現在に至ってます。

小泉孝太郎

 

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俳優の小泉孝太郎は1978年、この後、自由民主党総裁、第87・88・89代内閣総理大臣になる、小泉純一郎の長男として生まれてます。

弟の小泉進次郎とともに、関東学院六浦小、中、高と進み、二人とも野球をやっていたそうですが、関東学院卒業後、進次郎はコロンビア大に留学。

一方、孝太郎は役者を目指します。

孝太郎は役者になることについては小泉元首相に反対されていた時期もあったようです。

小泉孝太郎は、2000年に開催された「21世紀の石原裕次郎を捜せ」オーディションに応募するも、二次審査で落選。

しかし翌年の2001年に父・純一郎が内閣総理大臣になると、「首相の息子がイケメンらしい」と話題になり、小泉孝太郎に複数の芸能事務所から声がかかり、芸能界入りが決定。

小泉孝太郎は、親の七光りと威光、そしてそのルックスと雰囲気の良さで「好青年キャラ」として人気者になり、下積みなく脚光を浴びたシンデレラボーイだったと言えます。

が、父・純一郎も既に政界を引退してますし、親の七光りと威光だけで、10数年に渡り一線を張れるほど、芸能界も大衆も甘くない。

小泉孝太郎は、もはや若手ではなく中堅どころのベテラン役者。

シンデレラボーイもデビュー後は、自分の実力で今の確固たる地位を、長い時間をかけ築いたと評価できます。

 

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杏は1986年、俳優の渡辺謙と一般女性の間に生まれました。

人気俳優を父に持つ杏は、青山学院幼稚園、青山学院初等部、青山学院中等部卒業。15歳の頃より、女性ファッション雑誌「non-no」専属モデルとして活動。

が、杏は当時、父の名前は伏せて活動していたので、モデルでの活動は、親の七光りではなかったと言えます。

父の渡辺謙は、2003年に日本国外映画初出演となったアメリカ映画「ラストサムライ」での活躍が認められ、国際スターになります。

杏は2005年から海外進出しています。

芸能活動をするため進学した堀越は、既に中退。所謂「大検」大学入学資格検定に合格したように、杏は若い頃から、思いついたら即行動という女性だったようです。

海外進出した杏は、自身の実力でプレタポルテコレクション、アナスイ、ルイ・ヴィトンなどの著名メゾンのコレクションに多数出演。

この頃から、今話題の杏は「渡辺謙の娘だ」と、マスメディアが大々的に取りあげてます。

実兄の渡辺大も役者になってますが、杏もその後はファッションモデルから役者、そしてミュージッシャンとして活動の場を広げ、アルバムも2枚発表。

私生活では、杏と同じファッションモデル出身の俳優、東出昌大と結婚。3児のママとして、今も芸能活動を続けてます。

柄本佑

柄本佑は1986年、俳優の柄本明、女優の角替和枝の間に生まれます。

既に当時から父・明は役者として確固たる地位を築いていたので、弟の時生共々、佑は幼年、少年時代、恵まれた環境で育ったと思われます。

そんな佑は和光高校在学中、映画「美しい夏キリシマ」のオーディションに合格。

2003年同作の主人公役で高校生デビュー。

そして役者をやりながら、2005年には早稲田大学に合格。

大学時代は短編の自主制作映画も手掛けるなど、柄本佑は順風満帆な思春期を過ごしてます。

その後も柄本佑は映画、テレビドラマ、舞台と、父・明に負けず劣らずの大活躍を続けており、役者を志すようになる家庭環境は別にして、柄本佑に親の七光り、親の威光は、殆ど感じられません。

そして2012年に柄本佑は、こちらも二世タレント、俳優の奥田瑛二とエッセイスト・タレントの安藤和津の娘として生まれた、女優の安藤サクラと結婚。

安藤サクラの姉は映画監督の安藤桃子、柄本佑の弟の時生も役者。

佑と安藤サクラの結婚は、珍しい二世タレント同士の結婚でしたが、結果的に、大芸能一家になってます。

船越英一郎

 

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船越英一郎は1960年、俳優の船越英二、女優の長谷川裕見子の子として生まれてます。

また、母・裕見子は昭和の二枚目スター、長谷川一夫の姪ですので、船越英一郎にとって長谷川一夫は、大叔父に当たります。

父・英二は新宿の生地問屋「船越商店」の次男として生まれ、現在「吉本興業東京本部」になってる、旧四谷第五小出身。

もともと商人の出の英二は、売れっ子の役者をやりながら、神奈川県の湯河原で会員制旅館を創業。経営にもあたっており、そこで育った英一郎に、ゆくゆくは継がせるつもりだったとか。

よって船越英一郎は親の七光りどころか、親の意思に反して役者になってます。

また、船越英一郎は父・英二の遺産相続も放棄してると伝わっているので、父の威光なく、独力で人気俳優になり、現在に至ってると思われます。

ちなみに旅館を継いだ妹の平野洋子は、女将としてだけでなく小説家としても活躍してましたが、2010年、47歳で自殺。

原因は、長年の重労働と介護、船越英一郎と離婚した松居一代と船越家の確執で、パニック障害や鬱病を発症したことにあるようです。

なかなか役者一家のサラブレッド、二世タレントの船越英一郎も、人生は波乱万丈のよう。

佐藤浩市

佐藤浩市は1960年、俳優の三國連太郎と三番目の妻の間に生まれてます。

父・連太郎は、佐藤浩市が幼少時代に家出してるので、佐藤浩市は母子家庭状態で育ってます。

が、名優!三國連太郎の子ですから、当然、近所の人にも同級生にも、そしてその親にも「どうせ役者になるんでしょ」と言われたそう。

それが、若き佐藤浩市は嫌だったそうですが、やはり映画が好きなので、映像を学ぶために多摩芸術学園映画学科に入学。

結局、在学中に嫌だった筈の役者デビュー。

佐藤浩市は身長が182cmの長身、顔つきも野性味のある2枚目。

そして三國連太郎の子となれば、周りが放っておくわけがなかったのでしょう。

佐藤浩市には意識なき親の七光り、親の威光が働いてたと思われます。

ちなみに学校はそのまま中退しますが、佐藤浩市は映像作品へのこだわりがあり、映画やテレビ出演のみ。

舞台では活動していません。

そんな佐藤浩市も、二度結婚歴があり、前妻と現在の妻との間に子供が一人づつおり、現在の妻の子、寛一郎も2017年に俳優デビュー。

三代続く役者一家になってます。

宇多田ヒカル

 

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宇多田ヒカルは1983年、音楽プロデューサー宇多田照實と歌手藤圭子の子として生まれてます。

宇多田ヒカルはアメリカ、ニューヨーク生まれで、幼少の頃より日本とアメリカを行き来し、両親より音楽英才教育を受け、既に5歳の頃より歌手を志したそう。

1998年、15歳でCDデビューした時、宇多田ヒカルは「藤圭子の娘」としてプロモートされたわけでもなく、全くの無名歌手なのに、シングル「オートマチック」が注目。

抜群の歌唱力もしかりですが、全曲作詞作曲も15歳の宇多田ヒカルが手掛けた才能が話題になり、ファーストアルバムは当時異例の初動売上200万枚超えを記録しました。

この頃より、あの!宇多田ヒカルは「藤圭子の娘」と巷で知れ渡り、娘の宇多田ヒカルによって、母の藤圭子が、多くのオールドファンに思い出され、注目されました。

結果的にファーストアルバムは、オリコン調べて765万枚の記録的な売り上げになり、宇多田ヒカルは時の人になりますが、当時のマスメディアの露出はラジオ番組以外は、ソニーのCMのみ。

デビュー1年目にして、1999年の日本武道館公演含め、2000年までライブ活動を中心に活動。

2001年に発表されたセカンドアルバムも、初回出荷枚数は315万枚、発売初日のバックオーダーは85万枚を記録。

宇多田ヒカルは押しも押されぬトップシンガー、そして作詞作詞家に、10代にしてなりました。

寺尾聡

 

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寺尾聡は1947年、俳優、宇野重吉の子として生まれてます。

1965年に結成されたザ・サベージに、寺尾聡はベーシスト&コーラスとして加入。

おりからのエレキブームに乗り、ザ・サベージはテレビの「勝ち抜きエレキ合戦「世界へ飛び出せ(ニュー・エレキ・サウンド)」で優勝。1966年にレコードデビュー。

一躍人気バンドになりますが、寺尾聡は翌年1967年早々に脱退。

寺尾聡は1968年に、日産コンツェルン(今の日産自動車含む財閥)の創始者、鮎川義介の懐刀だった実業家、三保幹太郎の子です。

ジャズピアニストの三保敬太郎と、ザ・ホワイト・キックスを結成しています。

しかし、寺尾聡は当時のグループサウンズブームの、必ずしも人気者ではなく、又、父・重吉の威光も、音楽業界に届く事はなかったです。

その後、寺尾聡は役者としてデビューしますが、端役、脇役が殆どで、石原プロダクションのテレビドラマ出演で、その人ありになるには、少し時間がかかりました。

また、寺尾聡はミュージッシャンとしても地道にレコーディングは続けていましたが、ヒットには恵まれませんでしたが、1981年に発表した「ルビーの指輪」が大ヒット。

このブレイクを機に、以降、黒澤明監督作品含む映画、ドラマで大活躍。

寺尾聡は三十路も過ぎてから、大ブレイクした、遅咲きの役者だったと言えます。

堺正章

 

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堺正章は1946年、喜劇俳優の堺駿二の子として生まれ。

父・駿二に連れられ、撮影所に出入りしてる5歳の時に子役デビュー。

堺正章は子役で映画出演してた1950年代から、2019年の今に至るまで、長きに渡り現役で活躍してるマルチタレント。

堺正章は鎌倉学園在学中の1962年、16歳の時にスカウトされザ・スパイダースに加入。

ザ・スパイダースで、今で言うライブハウス、当時のジャズ喫茶などで活動をしながら、「高校三年生」「学園広場」「君たちがいて僕がいた」等の青春映画にも出演。

1965年、おりからのエレキブームに乗って、ザ・スパイダースは人気バンドになり、フロントの堺正章と井上順は、一躍人気者。時の人になります。

以降、ザ・スパイダースは1968年のグループサウンズ最盛期迄、人気を誇り、テレビの歌番組でも映画でも、堺正章は一時代を築きます。

が、父・駿二が新宿コマ劇場の公演中の1968年、脳溢血で倒れそのまま他界。享年54歳。

1970年のザ・スパイダース解散後、堺正章はソロ歌手として司会者として俳優として、そして父・駿二の跡を継いでコメディアンとして、誰もがご存知の大活躍。

堺正章は一度も人気が停滞する事なく、現在も司会業を中心に活躍しています。

加山雄三

 

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加山雄三は1937年、俳優の上原謙、小桜葉子の子として生まれてます。

加山雄三は俳優夫妻の子ですが、小中は茅ヶ崎の普通の市立校に通っていました。

有名人の子のため、周りの子供に敵対心を抱かれており、子供の頃は、一人で海で遊ぶのが日課だったそうです。

その後、加山雄三は、自分の実力で高校受験し、慶應義塾高に合格。

その後、慶應大学経済学部に進んでおり大学時代はスキーの神奈川県代表として、1959年、1960年に連続して国体に出場してます。

俳優デビューしてからも、弾厚作名義で作曲、自らの曲を自らが歌いヒット曲を連発。

映画「若大将」シリーズ、黒澤明監督作品への出演等、加山雄三時は20代後半にして時の人になりました。

しかし、父親の上原謙と共同名義で運営していた、高級リゾートホテル「パシフィックパーク茅ヶ崎」が倒産。

23億円の負債を抱え、約18億円で売却。

ホテルの実質経営者は加山雄三の母親の小桜葉子の弟、岩倉具憲でしたが、すでに俳優として峠を越えていた上原謙共々、返済能力はなく、残りの約5億円の返済は、加山雄三が背負いました。

負債を10年で返済した加山雄三は、その後、2019年9月現在、80歳になる今の今まで現役。

加山雄三の子供で役者の山下徹大は、2019年より芸名を加山徹と改め、加山制を世襲。

3代続く、俳優家系を継承してます。

 

以上、2世タレントの芸能人10選まとめでした。

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