坂東工が結婚しない理由は元彼女とダンサーとの破局が原因?

バチェラー出演者

坂東工(ばんどう たくみ)は、日本で配信されているバチェラー・バチェロレッテの案内人を務める人物です。

番組の展開ごとにどこからともなく現れ、暑いビーチでも寒い雪山でもスーツ姿を徹底。

非日常的な番組の雰囲気を盛り上げる、陰の立役者でもあります。

バチェラーに劣らない容姿に、渋く響く声、いつでもスマートな立ち振る舞いの案内人を、思わず目で追ってしまう人もいるのではないでしょうか。

今回は、謎に包まれたバチェラーの案内人、坂東工についてまとめました。

坂東工の生い立ち


坂東工は、1977年7月25日生まれの現在44歳です。

生まれは母親の実家がある徳島県ですが、すぐに東京渋谷に移り住みます。

父親はレコード会社の広報で、母親は坂東工が生まれるまで、テレビ局のアナウンサーをしていました。

5歳まで渋谷で過ごし、その後は半年から1年ごとに引越しをする生活でした。

父親のもとから夜逃げ

坂東工は、9歳の頃に父親と離れて住むことになります。

理由は、父親の母親に対するDVでした。

もともと夫婦仲は悪く、子どもが喧嘩の仲裁に入ることも。

しかし坂東工は子どもながらに、2人の関係が良くなることはないと諦めていたそうです。

暴力に耐えかねた母親は、父親がいない隙に近所の人たちと一緒にトラックへ荷物を積み込み、3人の子どもを連れて夜逃げをしました。

10歳で1人暮らし

父親から離れてすぐ、母親は事業の関係で大阪に、6歳年上の兄は進学のため1人暮らし、3歳年上の姉は留学でアメリカのボストンへ渡ります。

坂東工は東京に残り、小学4年生のわずか10歳の時に、1人暮らしを始めることになりました。

その頃から、母親の会社が所有する横浜や東京のマンションに渡り住む生活を送っていたそうです。

 

母親からは預金通帳を渡され、毎月3万円の生活費が振り込まれました。

しかし、当時10歳だった坂東工が1人で銀行に行き、ATMでお金をおろそうとしても、警備員に止められてしまいます。

その為、その頃から母親の知り合いのもとで、新聞配達や八百屋の仕出し、皿洗いなどのアルバイトをして、生活費を稼いでいたのだとか。

学校が終わって16時半から夕刊の配達をして、夜はコンビニでご飯を買って帰る生活を送っていました。

朝ご飯は食べず、お昼は学校の給食、夜はコンビニ弁当という食生活で、「コンビニに育てられた」と表現。

反抗期も「反抗する相手がいなかった」と話し、孤独な少年時代を過ごします。

 

高校時代は、母親の都合で2度の転校を経験しています。

また、学校の三者面談に母親が来ることはなく、進路も自分1人で決めてきたそうです。

当時は勉強よりも中学生の頃から続けていた空手を優先し、学校ではなく道場に通う時間の方が長かったといいます。

日本大学芸術学部に進学

高校卒業後は、日本大学芸術学部演出コースに進学。

日本大学芸術学部を選んだ理由は、親代わりだった友人の父親の影響でした。

10歳で1人暮らしはおかしい」と、面倒を見てくれていた友人の父親が芸術系の趣味があり、アートや舞台などに連れて行ってもらったことで影響を受けたのだとか。

しかし、大学に進学しても自ら興味のあることを見つけられず、大学よりも課外活動に力をいれて過ごしていたといいます。

アメリカ旅行で刺激を受ける

19歳の頃には、初めてアメリカのニューヨークに旅行に行き、ミュージカル『ファンタスティックス』を観劇。

舞台のエネルギーに圧倒されて、泣いたり吐いてしまったりと身体が異常な反応をするほど感動したそうです。

舞台が終わった後も放心状態で立ち尽くしていると、劇場から仕事を終えた役者たちが次々と現れました。

たわいもない会話をしながら颯爽と街に消えていく姿を見て、更に衝撃を受けたといいます。

日々舞台が行われて、日常が流れていく様子に強い刺激を受け、この頃からニューヨークに住むことを夢見るようになりました。

そして大学卒業と同時に、アメリカへ渡ります。

ダンサーの日本人の彼女

渡米後はライターを目指し、日本人コミュニティの中で暮らす生活を送っていました。

周囲は日本人ばかりだった為、英語を話す必要もなく、ライターとしての活動も一切しないで過ごしていたそうです。

想像していた状況とは違うと思いながらも、居心地の良さを感じてしまい、半年ほどこの生活を続けることになります。

 

そんな時に、当時付き合っていたダンサーの日本人女性の踊る姿を見て、強い衝撃を受けました。

命を燃やすように踊る人”だったといい、初めて彼女のダンスを見た時には、持っていたグラスを落とすほど見入ってしまったそうです。

このままニューヨークでこの生活をしていてはいけない」と直感で思い、彼女と共に旅に出ることを決意しました。

 

しかし出発する前日に、彼女が「日本に帰る」と言い出し、坂東工は1人で車で旅に出ることに。

そして1日に500km近く車を走らせて、16万kmの旅をしました。

旅の途中では野生のコヨーテに囲まれたり、暴漢に襲われそうになったりと、様々な危険な体験もしたそうです。

採掘・狩猟を経験する

旅をする中で、ネイティブアメリカンと共に暮らした時期がありました。

そこで採掘や狩猟を教えてもらい、自分で動物の皮を剥ぎ、初めて1から物を作る体験をしました。

特に石との出会いは、坂東工の心を大きく動かしました。

一時期は地質学者になりたいと思うほど、石に取り憑かれたといいます。

ここでの採掘や狩猟を経験が、後のアーティスト活動にも繋がります。

この頃に集めた石や革を使って、現在もアクセサリーや革製品を制作しています。

 

そんな自由気ままな生活を1年半ほど続け、サンフランシスコに流れ着いた時に、一緒に旅をするつもりだったダンサーの彼女に連絡しようと思いつきます。

急な別れだった為、坂東工はこの頃もまだ彼女に気持ちがあったそうです。

日本にいる彼女の家に電話をかけると、彼女の祖母が電話に出ました。

ダンサーの彼女の死

電話口の彼女の祖母からは、彼女が病気で亡くなっていたことを聞かされます。

彼女が病気だったことを知らずに旅を続けていた自分を責め、坂東工は絶望して1週間ほど動けなくなってしまいます。

当時宿泊していたモーテルのハウスキーパーに助けられ、なんとか動くことができるようになりましたが、当時の自分を「廃人のようだった」と話しています。

そんな時に、”演劇学校生徒募集”の案内を掲示板で見つけ、坂東工は「何かしないとダメになる」と思い、演劇を始めることを決めました。

24歳で演劇学校に入学


坂東工は24歳の頃に、サンフランシスコの演劇学校ACT(アメリカンコンサバトリーセンター)に通いました。

これまでの自由な生活とは打って変わって、真面目に演劇学校に通い、1日に14時間近く勉強する生活を送りました。

そこで、英語を母国語としない生徒の中で初めてトップのクラスに入ります。

坂東工の芝居をみた先生から、「なぜそこまで、芝居に身を捧げることができるのか?」と聞かれ、演劇学校に入学した経緯を話しました。

自分に表現を教えてくれた彼女を亡くして絶望している時に、芝居に出会った」と伝えると、先生は号泣して「ニューヨークに帰りなさい。そこにあなたのやることがある」と言いました。

演劇学校をトップ成績で卒業した後は、先生の言葉通り再びニューヨークに戻りました。

2度目のニューヨーク生活

坂東工はニューヨークに戻り、いくつかのエージェントと契約を結んで、オーディションを受ける日々を送ります。

同時にお金を稼ぐため、日本の居酒屋でアルバイトをします。

 

この頃に出演した映画は、レオナルド・ディカプリオ主演の『ディパーテッド』で、中国人マフィアの役を務めました。

これが映画デビューとなりましたが、長い撮影時間に対して登場シーンはわずかでした。

 

一方、テレビCMのオーディションには次々と受かり、当時ニューヨークにいるアジア人の中では1番の活躍だったそうです。

しかし、CMの役がいくらとれても、「自分は何をやっているんだろう」という気持ちに苛まれました。

状況を変えるために、CM関連の仕事は全て捨てて、『硫黄島からの手紙』のオーディションを受けます。

硫黄島からの手紙のメインキャストに

硫黄島からの手紙』では、メインキャスト・谷田大尉を勝ち取ります。

二宮和也演じる西郷昇が所属する部隊の中隊兵で、部下に自決を強いて自らも死を選ぶという壮絶な役でした。

自決シーンを演じ切るとともに、自分自身の中でも糸が切れた感覚に陥り、映画の撮影後は言語障害になってしまいます。

言語障害に悩まされ帰国

その後も言語障害に悩まされ、日本に帰国するも、仕事はなく、自暴自棄になり33歳までアルコールに溺れる日々を送りました。

そんな時に出会った女性に声をかけられます。

 

坂東工が身に付けている革の小物を見て、「今度お店をだすから、うちのアーティストとして参加しなさい」と言われます。

突然のことで坂東工は驚きますが、アメリカの旅の途中で仕入れた革は日本にたくさん持って帰ってきていました。

声をかけてくれた女性との縁を感じ、彼女の言う通り革製品を作って提供しました。

そして、渋谷の西武デパートに坂東工が作った革製品が並び、すぐに商品は完売しました。

その反響を受けて、次は個展のオファーがあり、そこに来た黒沢明の娘、黒沢和子と出会います。

有名映画の衣装を担当


作品をみた黒澤和子は、坂東工に映画で使う衣装のオーダーをしました。

そして、2014年に上映された『真田十勇士』の衣装を担当することになります。

衣装作りの経験がなかった坂東工は、YouTubeで調べながら、見よう見まねで挑戦。

真田十勇士』は、2017年度アジアンフィルムアワード衣装賞にノミネートされました。

 

その後はアーティスト活動を本格的に始めます。

2016年には『忍びの国』で鈴木亮平の衣装作りを担当、2018年には『西郷どん』で渡辺謙の衣装作りを担当しました。

この頃に知人からバチェラーの進行役のオファーがあり、現在はアーティスト・俳優として活躍しています。

坂東工が独身を貫く理由は?


坂東工は、現在独身です。

YouTubeの質問コーナーでは、恋愛の質問について「恋愛がしたい」と答えています。

しかし、「1人でも生きていけてしまう」とも話しており、どこか結婚に一線引いているような雰囲気もあります。

坂東工が44歳まで独身を貫いている理由は、大きく2つあると考えられます。

独身である理由①自身の家族

坂東工は、家族に対するイメージが湧かないことを、過去のブログで明かしています。

生い立ちで触れたように、坂東工の幼少期は複雑な家庭環境で、現代でいう”ネグレクト”を受けて育ってきました。

 

家族と過ごした頃の記憶は希薄で、9歳で夜逃げをした以降、父親と会ったのは20歳の頃に1度あったきり。

その後に父方の墓参りに行った時に、父親の名前が墓誌にあったことで、父親が亡くなったことを知ったそうです。

 

10歳の頃から1人で生活してきた坂東工にとって、家族は「不確かなもの」だったとブログに綴られています。

こうした過去が、坂東工を結婚から遠ざけていると考えられています。

独身である理由②ダンサーの彼女の存在

坂東工が独身を貫く理由でもう1つ考えられるのが、人生に大きな影響を与えた、日本人ダンサーの彼女の存在です。

当時は、彼女が病気だったことを知らずに1人で旅に出たことや、旅先で様々な体験をしたこと全てに虚しさを感じてしまったといいます。

その後は、彼女の死がきっかけで演劇学校に通うことになりましたが、ニューヨークに戻ってからパフォーマンス集団を立ち上げた経験があります。

パフォーマンス活動をするきっかけも、やはり彼女の影響でした。

 

亡くなってしまった彼女に届く表現をするにはどうすればいいか」と考えた結果、彼女と同じダンスやパフォーマンスに挑戦することにします。

ダンスの経験は全くなかったため、練習やリハーサルはせずにぶっつけ本番で挑んだ舞台で、感情のままに身体を動かしたときに、亡くなった彼女に会えた感覚になったそうです。

パフォーマンスを通して彼女に出会えたことに喜びを感じ、再び同じ体験をするために、東海岸各地でパフォーマンス活動を続けました。

しかし、3年程パフォーマーとして活動しましたが、彼女に会う感覚に陥ったのは最初の1度だけだったそうです。

これほどまでに彼女を思い続けた経験も、坂東工が独身を貫いている理由ではないかと言われています。

坂東工の好きな女性のタイプは?

坂東工は好きな女性のタイプとして、伊達公子の名前を挙げています。

SNSではツーショットを投稿しており、写真には「憧れの人」「ドキドキが止まらない」と綴られています。

 

他にも、どのような女性が好きかという質問に対して、「”全てが思い出になる”という感覚を持っている女性」と話しています。

容姿や性格よりも、自分と同じ感覚や価値観を重視しているようです。

 

また理想のデートについては、「手を繋いでただ歩くだけで充分」と話しており、特別なことではなくありふれた日常を共に過ごしたいと話しています。

自身が幼い頃に感じることができなかった安心感を、恋人に求めているようです。

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